香納諒一『春になれば君は』角川文庫 1993年

 写真週刊誌の“やらせ事件”で,決まっていた甲子園出場が取り消され,高校を去った日浦浩嗣。その3年後,“やらせ事件”に深く関与していた元カメラマンの“私”は,私立探偵として,失踪した彼を探すよう依頼される。一方,警察は日浦を殺人事件の容疑者として追う。調査の末,“私”が見出したのは,清潔に整備された学園都市の奥底に渦巻くどす黒い「闇」だった・・・

 「角川ミステリーコンペティション」の1冊です(恒例となっている巻末の「解説」がついていないのは,そのせいでしょうか?)。全12冊のうち,これで7冊目かな?

 さて物語は,日浦浩嗣の失踪,その彼が容疑者となった殺人事件,さらに3人の女子中学生の不可解な飛び降り自殺と,(おそらく「ミステリーコンペティション」という発表舞台を意識してでしょうか)ハードボイルド・ミステリにしては「派手目」な事件で幕を開けます。
 “私”は,日浦の人生を狂わせてしまったという負い目から,彼の行方を追います。調査の過程で,しだいに事件の様相は複雑化していきます。大手予備校の進出をめぐる暴力団の暗躍,“私”を襲った暴走族が残した「3年前の事件を洗え」という謎の言葉,そして事件の中心にあるらしい「ワークブック」
 それとともに,作品の舞台である「筑山学園都市」の暗部がしだいしだいに明らかになっていきます。「新住民」「旧住民」との対立・軋轢・差別・いじめ,閉鎖的な環境下で多発する自殺・・・(これらのことが,舞台のモデルとなっている「筑波学園都市」でもじっさいに起きていることであるという雑誌の記事を読んだことがあります)。
 ストーリィは,そんな十重二十重に錯綜した人間関係,謎を描いていますが,視点が“私”に限られているため,それほど混乱するこはありませんし,山場を巧みに配しているので,ストーリィにメリハリがあり,サクサクと読んでいけます。ストーリィ・テラーとしてのこの作者の筆力と言えましょう。

 そして作者は,ラストにおいて,鏡像関係にある「大人の社会」「子どもの社会」を事件の真相として描き出します。大人の間にある「旧住民」と「新住民」との間の軋轢や対立,差別は,子どもの社会にもカリカチュアとして反映されています。謎のひとつである「ワークブック」は,まさにそのグロテスクな象徴でしょう。
 それに対して作者は,暴走族の少年少女や,高校を中退して働く青年たちの姿を生き生きと描き出します。それは,本書冒頭に掲げられた太宰治の言葉―「不良とは,優しさの事ではないかしら」と響き合います。
 「大人にとっていい子」とは「大人にとって都合のいい子」でしかなく,ときとして「大人の悪い部分」をも内包してしまうものなのでしょう。逆に「悪い子」と呼ばれる子どもたちの中に,「いい子」にはない輝きを見ることができることもあるかもしれません。
 最近,学級崩壊や少年の凶悪犯罪が報道されるたびに,「子どもが変わった」という言葉を耳にします。しかし子どもはいつの時代も,従うにしろ反発するにしろ,大人たちを見ながら成長します。つまり「子どもが変わる」前に,「大人が変わっていた」のかもしれません。
 陳腐であることは重々承知していますが,やはり「学園都市」という閉鎖的な環境は,現代社会の縮図といってもいいのかもしれません。

99/12/10読了

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