北森鴻『花の下にて春死なむ』講談社文庫 2001年

 「もしかしたら,真実などというものの正体は,実は普遍性などどこにもなくて,ただ個人の信念の中にのみ息づく幻なのかもしれない」(本書「魚の交わり」より)

 新玉川線の三軒茶屋駅で降り,商店街を抜けて,通りを1本外した細い路地にあるビアバー“香菜里屋”。焼き杉造りの分厚いドアを開けると,L字型のカウンターの向こうには,マスター工藤哲也の控えめな微笑。お客を心底リラックスさせてくれる人柄のマスターには,もうひとつ,“名探偵”という横顔があった…

 6編よりなる連作短編集。1999年の第52回日本推理作家協会賞短編賞・連作短編賞受賞作品です。

「花の下にて春死なむ」
 孤独のうちにひっそりと死んだ老俳人・片岡草魚。身元不明の彼の素性を追う飯田七緒は…
 たしかにおもしろいのです。故郷を捨て去り,流浪の果てに死んでいった老俳人の素性を追っていくプロセスも小気味よいですし,また,とうてい咲くはずのない桜がなぜ3月の終わりに花をつけたのか,という謎も魅力的です。ただ,なんでこのふたつを結びつけたのかな?というところが,いまひとつ腑に落ちないというか,落ち着きの悪さを感じてしまいました。別々の短編にしてもよかったのでは?
「家族写真」
 駅の無料貸本に挟まれていた大量の家族写真。その背後にある秘密とは…
 冒頭に提示される不可解な謎,その謎を推理していく過程で,シチュエーションが思わぬスライドを見せ,さらにその上で示された“真相”が,ラストでするりと反転する,じつに丁寧かつすっきりと仕上げられた短編ミステリです。心憎いまでに気配りするマスター工藤のキャラクタも,この連作短編の魅力のひとつであることを,きっちりと伝えています。
「終の棲み家」
 記念すべき最初の個展のポスターが,すべてはがされてしまった写真家は困惑し…
 ポスターの盗難,傍若無人なモトクロス族,“自由生活者”の老夫婦,役所による強制執行などなど,悪意と冷酷さが漂う「語り」の間にはさまれた,ほんのわずかな手がかりをすくい上げて,善意に満ちたハートウォームなラストに着地させるところは見事ですね。
「殺人者の赤い手」
 殺人事件の現場で,小学生は“赤い手の魔人”を目撃し…
 「後味の悪い結末」に,ぐいっと迫りながら,そこからすっと離れる…そんな緊張感の高まりと解放感が何度か繰り返される作品です。そのサスペンスが,本編の最大の魅力といえましょう。「赤い手」の正体は,いまひとつインパクトに欠けるうらみがありますが…。
「七皿は多すぎる」
 回転寿司屋で,鮪ばかり七皿も食べるのは多すぎる…
 タイトルは,いわずと知れた有名なミステリ短編「九マイルは遠すぎる」(ハリイ・ケメルマン)のパロディになっています。そのことと,アームチェア・ディテクティブという本シリーズのフォーマットのために,読者の予想は,「九マイル…」と同じ方向へと向かうと思うのですが,おそらくそのへんの読者の気持ちをきっちりと読み込んだ上で,じつに上手にひっくり返してくれます。
「魚の交わり」
 20年以上前に死んだ女性が残した絵日記。そこには片岡草魚の俳句が記され…
 表題作で登場した老俳人片岡草魚と,フリーライター飯田七緒が再登場です。草魚と死んだ女性風魚との意外な関係と,その背後に隠された真相のサプライズはもちろんあるのですが,それ以上に,草魚への“想い”が残る七緒の,彼に対する「鎮魂歌」といった趣のしっとりとした余情を味わえる作品です。

02/08/06読了

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