井上雅彦監修『俳優 異形コレクションXIII』廣済堂文庫 1999年

 「あたしたちは演じるために生きている。演じる者は,いつまでたっても本物になれない。でもね,失われた本物の穴を埋めることができるのは,結局,別のものでしかないんだよ。だから,あたしらはいつだって喜ばれるんだ」(斎藤肇「柚累」より)

 「異形コレクション」の第13弾のテーマは,「俳優」―役者・舞台・芝居・映画などなどですが,まぁ,出るべくして出たテーマと言えましょう。それほどに役者や芝居をめぐる怪異譚は,伝説・噂話として人口に膾炙し,またフィクションでも頻繁に取り上げられる古典的な分野だと思います。ですから,そういったネタをどう“料理”するか,が,それぞれの作家さんの力量の見せ所となるでしょう。
 気に入った作品についてコメントします。

篠田真由美「君知るや南の国」
 “私”がただの一度,奥様のお供として,鹿鳴館を訪れたのは15歳のときでした…
 “私”の回想として語られるこの作品は,けして派手な筋立てでもありませんし,人を驚かすような怪異が出現するわけでもありません。しかし,ほんのわずか,ラストで描かれる幻想的なシーンがじつに鮮烈です。あるいはまた,鹿鳴館そのものが,近代日本が見た一夜の幻想,あるいは一幕の「芝居」だったのかもしれません。
森真沙子「肉体の休暇」
 半壊したようなホテルで,“私”は大女優・速水れい子と同宿することになり…
 オーソドックスな「役者怪談」といったところですね。ラストもお約束といった感じです。ただ主人公の役者が怪異に遭遇するきっかけ―観光地にはどこにでもありそうな,あるものから異界に導かれる―がおもしろかったです。
倉阪鬼一郎「白い呪いの館」
 唯一のヒット作「白い呪いの館」の上映に招かれた主演男優・籬凶一はそこで…
 映画の中の「自分」と,それを見る「自分」―それはもしかすると合わせ鏡のようなものなのかもしれません。どこまでが実像で,どこまでが虚像なのか判然としない,合わせ鏡の中の「自分」・・・・ならば,見ている「自分」は本当に「実像」なのでしょうか?
北野勇作「楽屋で語られた四つの話」
 演劇の世界で本当に囁かれていそうな「怪談」4編をおさめたオムニバスです。うち,ラストの「舞台」のラストの一文が,「役者」と呼ばれる者たちの本質を的確に切り取っているのかもしれません。
本間祐「俳優が来る」
 “僕”の家に俳優がやって来た。「どうか私の演技を見てください」…
 俳優が怪異譚の素材として好まれる理由のひとつは,彼らが,さまざまな「役柄」を演じる「異人性」にあると思います。しかし「役柄を演じる」という行為は,けして役者だけの特権ではありません。あらゆる人々が,役割を演じ,肩書を演じ,男を演じ,女を演じ,そして「わたし」を演じ・・・不条理なテイストに満ちた作品ながら,妙に心に「ストン」と来るものがあります。
斎藤肇「柚累」
 “村”に旅の一座がやってきた。柚累は,その看板女優・緋能に心を奪われ…
 どこか寓話めいた,幻想的な一編。「世界」が「舞台」ならば,あらゆる「人」はいずれも「役者」。ならば当然,その「芝居」を見る「観客」もいるはず。しかし「観客」をも含めた「世界」が「舞台」ならば「観客」もまた・・・この作品集で一番楽しめました(ところで「柚累」って,なんて読むんでしょう?^^;;)
朝松健「小面曾我放下敵討」
 下克上が習いの戦国の世。猿楽役者に身を窶した兄妹は,仇の姿をついに見出し…
 この作者お得意の「時代劇ホラー」です。ストーリィそのものは,「仇討ち」という見慣れたものではありますが,独特の時代がかった文章で紡ぎ出される作品世界は,すでに自家薬籠中のものと言えましょう。
井上雅彦「劇薬」
 役者だった祖父が残した“劇薬”。“私”はいまやそれを必要としている…
 “劇薬”という素材そのものは,(作中でも描写されているように)役者のアイデンティティをめぐる物語に見られるものでありますが,ラストで,それをまったく異なる“世界”の中に置くことで,哀しくも奇怪なエンディングへと導いていくところは巧いです。

99/11/06読了

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