スティーヴン・キング『グリーン・マイル1〜6』新潮文庫 1997年

 “グリーン・マイル”とは,コールド・マウンテン刑務所死刑囚舎房のライム・グリーンのリノリウムが貼られた通路。その通路は電気椅子へと通じる“ラスト・マイル”。1932年,不思議な鼠“ミスター・ジングルズ”の出現が始まりだった。そして双子の少女を惨殺したかどで死刑を宣告された黒人,ジョン・コーフィが入房。看守主任ポールは,コーフィが不可思議な“力”を持っていることを知る・・・・

 連載小説というのは苦手です。また1日に十数ページずつ少しずつ読んでいくのも苦手です。物覚えが悪いらしく,前回までの筋や設定を忘れてしまうからです。ミステリで,前の方を忘れるということは,ときとして重要な伏線も忘れてしまうことですので,ミステリを読む楽しみの半分くらい失ってしまう危険性(?)があるのです。ですから,いつもは,一気に1冊を読み通すことにしています。
 この作品は,第1巻刊行から待つこと半年(正確には5ヶ月?),本棚に毎月1冊ずつ溜まるのを横目で見やりながら,完結まで我慢していました。そしてようやく第1巻を開くことができたのでした。

 物語の前半は,コーフィの登場と彼が告発された双子の殺害事件,芸達者な鼠“ミスター・ジングルズ”ドラクロアとの出会い,そしてポールが経験するコーフィの不思議な“力”と,物語の形作るさまざまな要素が,淡々とした文章で描かれていきます。
 その展開は,しょうしょう単調と言えなくもありませんが,大恐慌時代を背景としたポールとパーシーの確執,粗暴な囚人ウォートンが巻き起こすトラブル,刑務所所長ムーアズの妻メリンダの病など,物語の後半で中心となる重要な背景が描かれていきます。
 そしてドラクロアの悲惨な死を分水嶺として,物語は一気に加速します。真夜中の危険な脱出劇,そしてコーフィの事件をめぐる“真相”。最終巻になって,物語の最初の設定がくるりと反転し,真相が明らかにされていくプロセスは,「できすぎ」という部分がないわけではありませんが,なかなか小気味よい展開です。前半部のさりげない描写のなかに埋め込まれた伏線が効いています。またアイロニカルなミスリーディングも楽しめます。前半部の単調さを埋め合わせるには十分だと思います。

 さて,真相が明らかにされたにも関わらず,無力なポールたちは,コーフィを電気椅子へと送り込まなければなりません。ポールの言葉,「愚行。これが恐怖でなくて,なにが恐怖か」という言葉は,たとえ凶暴なモンスタや化け物が出てこなくとも,世に「恐怖」は掃いて捨てるほどあるのだということを端的に表しています。
 これまでもこの作者は,超常的な恐怖と,登場人物との不安を共鳴させることで,独特のホラー作品を創り上げてきました。しかしこの作品では,コーフィの不思議な“力”という超常的なネタも出てくるとはいえ,どちらかというと,登場人物たちの不安(大恐慌の時代に職を失う不安,病の不安,不条理な暴力への不安,「死刑」という合法的な殺人行為に対する不安などなど)に重点を置いているようです。
 ただここで描かれている不安,恐怖は,かなりキリスト教的な色彩が強いように思えます。かつて“神の御技”であり,“奇跡”であった“癒し”は,ここではコーフィを救うことはできません。むしろその“力”は,コーフィをたとえ無実の罪であっても「行ってしまいたいんだ」と思わせるほど,疲弊させています。さらにその“力”は,ポールに対して,あまりに長く辛い“グリーン・マイル”を課すことにさえなります。「奇跡が起こらない」ことよりも,「奇跡が起こってもなんにもならない」という状況の方が,もしかすると(キリスト教徒にとっては)よりいっそう不安と恐怖を感じさせることなのかもしれません。また「救済と呪いのあいだには,本質的な違いはありはしない」というポールの最後の独白もまた,キリスト教にとって重要な観念である“救済”を相対化しているように感じさせます。

 人は誰でも“グリーン・マイル”を歩いている。たとえ“奇跡”があったとしても,けっして“グリーン・マイル”から逸れることはできない。違うのは,それが長いか短いかだけなのだ。この物語の核心は,そんなところにあったのかもしれないと,思いました。

97/07/06読了

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