ジャック・フィニイ『ゲイルズバーグの春を愛す』ハヤカワ文庫 1980年

 「世間のすべてが寝しずまり,自分一人きりが起きているとき,夜は奇妙な時間となる」(本書「愛の手紙」より)

 有名な作品集ながら,これまで読んだことがありませんでした。「甘み」と「苦み」が渾然となったファンタジックな短編10編を収録しています。ところで,なぜひとつの作品で,「私」「ぼく」「おれ」が混用されているのでしょうか?
 気に入った作品についてコメントします。

「ゲイルズバーグの春を愛す」
 古い町並みを数多く残すゲイルズバーグでは,奇妙な出来事がときおり起こり…
 「過去は消えていない」という,この作者が好んで用いるモチーフを描いた作品です。主人公に街を愛する青年を設定することで−「私は街に恋をしたのだ」−,奇妙な出来事を描きながらも,全体に優しい雰囲気に包まれています。しかしその一方,「過去」の非力さと,「過去」を壊していくのがほかならぬ「我々」であるという苦い自覚が,哀しみと諦念に満ちたトーンをも作品に与えているように思います。
「クルーエット夫妻の家」
 死んだ伯父が描いた設計図をもとに1880年代の家を建てたことから…
 過去の建物を図面通り正確に復元することで,失われたはずの「過去」が蘇る−これもまたこの作者が好きなシチュエーションですね。ただ前作と違うところは,主人公の“私”が,その「過去」に含まれていないこと,それによって生じる寂しさのようなものが感じられることでしょう。建築家−家を設計し建設するけれど住むことはない人物−を主人公に据えたことが,その「含まれない立場」を上手に描いています。
「もうひとりの大統領候補」
 “私”の友人チャーリィは,子どもの頃,虎に催眠術をかけたのだ…
 いくつかのエピソードを積み重ねることで描き出すチャーリィの才気あふれ,なおかつユーモアに富むキャラクタ,チャーリィと虎の「対決」の緊迫感,そして伏線の効いた鮮やかな着地。各編,作者のストーリィ・テリングの妙が楽しめますが,その中で本編は秀逸なもののひとつでしょう。
「独房ファンタジア」
 1週間後に刑の執行が決まった死刑囚は,独房の壁にせっせと絵を描き始めた…
 とある結末を予想していて,ちょっと陳腐かななどと思っていたのですが,それをきれいに,気持ちよく裏切るエンディングでした。本当に彼は一晩で描き変えたのか? それとも「奇跡」が起きたのか? たとえどちらでも,美しい「伝説」が生まれる瞬間を活写しています。
「大胆不敵な気球乗り」
 空を飛ぶ鷹の姿を見て,彼は気球を作ることを決意する…
 リアリティがあるようないような,しかしファンタジィでもない−そんなちょうど境目あたりを描いていますね。どこか昔のモノクロ映画,コメディ・タッチの映画を見ているような痛快で愉快な作品です。
「愛の手紙」
 時代物の机の隠し抽斗に入っていた手紙は…
 時を超える愛モノです。主人公が書いた返事の「届き方」が,じつにこの作者らしいですね。また隠し抽斗を3つだけにして,手紙の交換の機会を限定している点は,お話づくりの巧みさと言えましょう。カヴァを飾る内田善美の絵は,この作品がモチーフになっているようですね。

01/05/30読了

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