メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』創元推理文庫 1984年

 自然科学を究めんとする若きヴィクター・フランケンシュタインは,禁断の実験に手を染める。それは人造人間の創造・・・しかし,自身が生み出した「怪物」のあまりの醜さ,おぞましさに,ヴィクターは逃げ出してしまう。一方「怪物」もまた,みずからの醜さゆえに創造主ヴィクターを憎むようになり・・・

 本書の初版は1818年,この翻訳の元となった第3版(決定版)でも1831年。今から170年以上も前の作品です。日本でいえば江戸時代ですよ! そう考えると,なんか凄いですね(でもエドガー・アラン・ポー「モルグ街の殺人」も1841年ですから,やっぱり江戸時代。ミステリやSF,ホラーの歴史というのもけっこう長いんですね)。
 そんな古い作品ですから,持って回った言い回しや,大仰な心情吐露のようなセリフなど,現代の感覚からすると文体的にちょっと馴染めないところもありましたが(当時の小説というのは「朗読」も意識していると聞いています),そういった点を差し引くと,キャラクタ造形やストーリィを展開させていく「技」など,なかなか楽しめました。

 さて「フランケンシュタインの怪物」といえば,吸血鬼ドラキュラ狼男などと並んで,ヨーロッパを代表するモンスタのひとりと言っていいでしょう(もちろんそこには,映画をはじめとするさまざまなメディアで繰り返し取り上げられた影響もあるかと思います。ちなみに,わたしにとってのフランケンシュタインの怪物・ドラキュラ・狼男というと,藤子不二雄『怪物くん』のイメージが強いのですが・・・^^;;)。
 しかしこの「怪物」が,吸血鬼や狼男と大きく異なるところは「絶対的な孤独」にあると思います。吸血鬼にしろ狼男にしろ,彼らにはヨーロッパの古代・中世まで遡る土俗的な「伝統」があります。それに対して,「怪物」にはそういった「伝統」はありません。近代という,新たな時代を迎えたヨーロッパだからこそ生み出された存在です。近代科学が生み出したモンスタなのです。ですから彼に「仲間」はいません。顧みるべき「歴史」も「過去」もありません。
 それゆえ「怪物」は,他のモンスタにはない独特の悲哀を身にまとっています。物語の中盤,「怪物」のモノローグが挿入されています。ヴィクターの元を彷徨い出た彼は,山中の小屋に潜み,そこに住む家族の生活を盗み見ることで言葉を,知識を得ていきます(その家族に外国人女性を加えることで,言葉と知識を得られるようにするシチュエーションは巧いですね)。
 そして「怪物」はみずからに問いかけます。「自分は誰だ? 何者なのだ? どこから来たのだ? 自分の運命は何なのだ?」と。この問いかけは,「怪物」に限られたものではなく,人間の根元的なものと通じ合うものがあります。あるいは何もかもが慌ただしく変化し,「新しい」ということが中心的な価値の中にいるわたしたちもまた,頼るべき「伝統」からも「歴史」からも切り離された存在なのかもしれません。そういった意味で,「怪物」の問いかけは,発表当時よりも,今のわたしたちにこそ,より切実なのかもしれません。それゆえにこそ,石もて追われ迫害される「怪物」の哀しみは普遍性を帯びるのではないかと思います。
 さらには,そんな自分を生み出したヴィクターに対して,「責任」を求め「義務」の履行を迫る「怪物」の正当性さえも感じられます。そう,このヴィクターが負った「責任」・・・「怪物」に対する責任と,「怪物を生み出してしまったこと」に対する責任。そこには現代の科学者たち−原子爆弾を生み出し,細菌兵器を生み出し,ついにはクローン人間を生み出すかもしれない−の姿が重ね合わされます。みずから作りだしたものが,自分のコントロールを逸脱し,暴走する危険性をつねに秘めている現代の巨大科学−ヴィクターと「怪物」との関係には,そんな現代科学についての「予兆」が現れているように思います。

 「フランケンシュタインの怪物」が,「誕生」してから2世紀近くを経ながら,さまざまなメディアで繰り返し取り上げられるのは,(もちろんその異形の姿が刺激的であることもあるでしょうが)「絶対的な孤独」がもたらす哀しみと,「怪物」が持つ科学の危険性に対する予兆があるからかもしれません。

01/09/30読了

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