W・P・ブラッティ『エクソシスト』創元推理文庫 1999年

 「恐怖の発端である出来事はすべて,それと意識されぬままに過ぎ去っていく」(本書より)

 女優クリスの一人娘リーガンは,12歳の誕生日を境にして異常な言動が見られるようになった。粗暴な振る舞い,下品で性的な罵詈雑言,太い男のような叫び,そして顔付きまでもが凶悪なものへと変貌していく。さらにはリーガンの寝室は冷気と悪臭に包まれ,彼女の寝るベッドは独りでに揺れ動く。その原因も理由も明らかにできない医師は,ショック療法としてひとつの方法をクリスに提案する。それはイエズス会神父による“悪魔祓い”だった…

 いうまでもなく,ホラー映画『エクソシスト』の原作です。映画版は,グロテスクなメイキャップ,(当時としては)精巧な特殊撮影(「SFX」なんて言葉はまだありませんでした),神秘的で,どこか不安感を呼び起こすチューブラー・ベルズのテーマ音楽などが合わさって,1970年代の「オカルト・ブーム」の火付け役となりました。
 当時,映画版を見て,さっそく図書館から本書を借り出した中学生のわたしですが,映画版に比すと,原作については(その不気味なカヴァを除き)ほとんど記憶に残っていないというありさまです。おそらく映画版のインパクトが強すぎたことと,「恐怖の核心」へと緻密なまでに段階を踏んで展開していく原作の妙味が,まだ小説に対するキャパシティの小さかった中学生のわたしにとって,十分に味わえるものではなかったせいなのかもしれません。
 しかし今回,じつにひさしぶりの再読で気づいたのは,(「解説」で笹川吉晴も書いているように)日常のディテールの丁寧な書き込み,「恐怖の核心」(本作では“悪魔憑き”)と,各種登場人物−とくにリーガンの母親クリスカラス神父−の心の不安や「闇」との共鳴・共振といった点が,スティーヴン・キングをはじめとするモダン・ホラーと共通性,類似性を持つ点です。そういった意味で,70年代の「オカルト・ブーム」のあとに来る80年代の「モダン・ホラー・ムーヴメント」の先駆的作品と呼べるのかもしれません(<年代はあくまで個人的な体験によります^^;;)。

 物語は,少女リーガンを襲う不可解な「変貌」を描き出すところから始まります。その直前,クリスが耳にする「コト,コト,コト」という天井からの音や,知らぬ間に動いている家具,リーガンが口にする“幻の友人”キャプテン・ハウディの存在などの描写は,「怪談」としては定番とも言えるものでしょう。
 そして次第にエスカレートしていくリーガンの奇矯さ,不気味さ。作者は,その解明を目指す現代医学や精神分析治療の過程を綿密に描いていきます。たしかにこのような展開は,やや冗長と受け取られかねないものですが(中学生のわたしは,このあたりが不満だったのかもしれません),考えてみればあたりまえのことで,現代社会において奇怪な行動・現象があるからといって,それがすぐにストレートにオカルトに結びついてしまうのは,逆に言えばあまりにリアリティが欠如していると言えましょう。
 作者は,いわば「消去法」的な手続きを踏みながら,現代医学では説明しきれない,解明不可能な現象を浮き彫りにし,さらに“悪魔祓い”を,一種の「ショック療法」として医者に語らせることで,現代にオカルティズムが登場する「舞台」を作り上げています。このような「迂回路」を通るがゆえに,物語は説得力と迫真性を獲得することができたのでしょう。

 それともう一点,注目したいのをカラス神父のキャラクタ造形でしょう。神父とクリス・リーガン母娘が接触するのは物語の後半ですが,それまでにも作者は,彼の姿−精神病理学者としてのカラス,老母を見捨てて神父になったことに罪悪感を感じるカラス,みずからの信仰心に不信感を抱くカラスの姿を,描き込んでいきます。
 この丁寧な描写は,クライマクスにおける,リーガンの身体に潜む「悪魔」との対決シーンで活きてきます。悪魔が口にする言葉の数々はカラス神父を苛みます。神父の心にある弱点や負い目を剔りだしていきます。その光景は,「悪魔vs神」という抽象的な戦いというより,カラス神父の中にある「良心vs邪心」の戦いとも見ることができます。
 つまりこの作品における「悪魔の脅威・恐怖」は,人間の「外側」から不条理に襲いかかるものであるとともに,その悪魔によって呼び起こされる,人間自身の「闇」の恐怖をもあわせもっているわけです。だからこそ本作品は,「悪魔祓い」という,まさに中世ヨーロッパ的な素材を用いながらも,すぐれた現代性を持ったモダン・ホラーとして評価されるのではないかと思います。

 最近,映画版の「ディレクターズ・カット版」がDVDで出たとのこと。もう一度見てみたくなりました。

02/05/26読了

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