H・G・ウェルズ『モロー博士の島』岩波文庫 1993年

 書店で見かけて,あまりに有名な作品でありながら,これまで読む機会がなかったことに気づき,さっそく購入,読んでみました。
 H・G・ウェルズといえば,『タイム・マシン』『透明人間』など「古典SF」の書き手というイメージが強かったのですが,この,10編をおさめた中短編集を読んでみて,かなり幅広いジャンルの書き手であったことを知りました。

 たとえば『蛾』という作品は,昆虫学者が,死んだ論争相手の幻影に怯えて狂っていく様を,毒々しい蛾のイメージと重ね合わせながら,描いています。今風に言えば,“サイコ・ホラー”といったレッテルが似合いそうなテイストを持っています。また「紫色のキノコ」は,妻の傍若無人な態度に怒って家を飛び出した気の弱い夫が,紫色のキノコを食べたことから,別人のごとく変身し,妻やその友人たちをやり込めてしまうというお話。スラプスティックなブラック・コメディといった感じの作品です。また「パイクラフトの真実」は,不思議な薬を飲んで,体重がゼロになってしまった男の奇妙な物語,「マハラジャの遺産」は,インドを舞台にした,財宝をめぐる政争・革命劇で,奪い合った財宝の正体はじつは・・,というオチがなんともアイロニカルです。「エピオルニス島」は,絶滅してしまった幻の巨鳥“エピオルニス”をめぐる「ホラ話」といった感じです。

 もちろんSFテイストの作品もあります。「ブラウンローの新聞」は,1931年に,1971年の新聞が届けられる,いわば一種の“タイム・スリップ”ものです。「故エルヴィシャムの遺産」は,とある老人の“すべての”遺産を受け継いでしまった男の悲劇を,あるSF的小道具を使って描いています。物語られる内容の真偽が,最後に“藪の中”に入れてしまうオチがいいです。また「デイヴィッドソンの不思議な目」は,いまではSFではすっかりお馴染みになってしまった,ある原理が語られています。どこかせつない雰囲気が好きです。「アリの帝国」は,新種のアリが人類に攻撃を仕掛けるSFホラーです。

 そして表題作「モロー博士の島」。船が遭難して,絶海の孤島に流れ着いた“私”。そこはモロー博士が,動物を人間に改造するという,禁断の実験を行っている狂気の島だった・・・,という,“マッド・サイエンティストもの”のSFホラーの古典です。「すぐれたSFはすぐれた文明批評でもある」という言葉を読んだことがありますが,この作品もなかなか示唆に富み,興味深く読めました。
 本作品の初出は1896年,その40年前にダーウィンは『種の起源』(1859年)を発表し,進化論を唱えます。それまで「神に創られた者」として特権的な存在であった人類を,他の動物と連続する存在であるとし,大きな社会的論争を巻き起こします。他の動物と連続する存在である人類は,しかし,その一方で,みずからを(とくに白人種を)進化の頂点,“万物の霊長”と設定することで,心のバランスを取ったように思います。
 モロー博士は,動物を改造して人間にしようとします。それは「人類と動物は連続する」という進化論のテーゼを受け入れた考えでしょう。しかしモロー博士は,みずから創り出した動物人間たちが「獣性に縛られ,人間にはなれない」と,彼らを蔑み,迫害します。そこには,人間を他の動物と異なる“崇高な”存在としてとらえる見方が現れているように思えます。つまりこの作品には,上に書いたような,ふたつの相異なる心性が色濃く出ているように思います。
 しかし,モロー博士が,動物人間を評する言葉,
「彼らの魂を見ると,そこには滅びるべき獣の心しか見えない。怒り,情欲,貪欲そんなものだけだ」
は,本当に動物人間だけのものなのでしょうか? それこそ“真性の人間”のうちにも見いだされるものではないでしょうか? そういった意味で,命からがら島を逃げ出した主人公が,取り澄ました,理性的であるはずの人間たちの仮面の背後に,“獣性”を見てしまい,草原の中に隠れ住むようになるというエンディングは,なんとも意味深いものがあるように思います。
 作中,襲いかかろうとするハイエナ男に,主人公は,モロー博士のやり方と同様,
「敬礼! お辞儀をしろ」
と高圧的に言います。それに対して,ハイエナ男はこう答えます。
「そういうおまえこそ何様だというのか・・・」
 ウェルズが描き出したのは“凶暴な動物人間の恐怖”なのでしょうか? それとも・・・。

 それと本作品集は,訳がこなれてて,とても読みやすかったことも,楽しめた理由のひとつでしょう。

98/05/07読了

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