コナン・ドイル『ドイル傑作集III−恐怖編−』新潮文庫 1960年

 言わずとしれた名探偵シャーロック・ホームズの産みの親による恐怖短編6編を収録しています。

「大空の恐怖」
 大空に飛び立ったまま行方不明になった飛行士。彼が残した手記には…
 「未知の領域」とは,人間にとって好奇心を刺激するとともに,一方で恐怖をも引き起こすものなのでしょう。かつて,その代表的な「未知の領域」は海洋であり,現代では宇宙空間なのでしょう。そしてちょうどその間の20世紀初頭,人類が大空にその行動領域を広げはじめた時代(ライト兄弟による初飛行は1903年),大空は小説家の想像力を刺激するに十分な「未知の領域」だったのでしょう。主人公が大空で遭遇する「恐怖」の造形は,どこかSFに登場するモンスタを彷彿とさせますね。
「革の漏斗」
 友人が手に入れた“革の漏斗”。それを枕元に置いて眠ると奇妙な夢を見るという…
 ヨーロッパ近代が称揚されればされるほど,中世は,実際以上に深く暗い「暗黒」として描き出されます。しかし,それもまたみずからの歴史の一部として,近代ヨーロッパ人はどのように見ていたのでしょうか? ふとそんなことを考えました。枕元に置くと,そのものにまつわる夢を見るというのは,晩年,心霊科学に没頭したというこの作者らしい発想なのかもしれません。
「新しい地下墓地(カタコウム)」
 考古学者のケネディは,友人が発見した地下墓地に案内してくれと懇願するが…
 「地下墓地」というのは,クリスチャンにとっては,迫害から逃れるための「受難の聖地」なのかもしれませんが,それはあくまでのちの時代にキリスト教が社会の中心になったからこそ,そのような位置づけになったとも言えましょう。「地下」「迷宮」という言葉が示すものは,もっと暗く,カルト的な匂いです。ミステリやホラーにおいて遺跡がしばしば舞台とされるのは,そういった「いかがわしさ」ゆえなのかもしれません。本編のような復讐劇にとっても似合いの場所なのでしょう。
「サノクス令夫人」
 有名な外科医ストーンは,サノクス令夫人と浮き名を流すが…
 この作品もストレートな復讐譚なのですが,主人公のストーン医師のキャラクタ設定が上手で,なぜ彼が「そのような場面」に立ち至ったかという展開がじつにスムーズです。またそのキャラクタゆえに企てられた復讐の手段もおぞましくて,グッドです。
「青の洞窟の怪」
 石灰岩の丘陵で見つけた洞窟。その奥底に潜んでいたものの正体は…
 近年,エンタテインメント作品に一番大きな影響を与えた科学的知識は,DNAではないかと,わたしは思っていますが,この作品が書かれた頃で言えば,おそらくダーウィンの進化論ではなかったかと思います。洞窟の奥底に潜むモンスタというモチーフ自体は,それこそ神話の時代にまでさかのぼるでしょうが,その「正体」をめぐって本作品のような発想がなされるのも,やはり時代の雰囲気を伝えているように思います。
「ブラジル猫」
 借金を申し込むため,南米で成功して帰国した従兄の屋敷を訪れた“私”は…
 じつにウェル・メイドな短編作品です。陽気な従兄と,対照的になにやら含むものを持った陰気なその妻,凶暴なブラジル猫…基本設定も意味ありげで楽しく,また結末も,予想範囲内にあるとはいえ,そこにもうひとひねり加えることで,その結末をより劇的なものにしているところは,ストーリィ・テリングの巧みさと言えましょう。本集の作品は,上に書きましたように,いろいろと時代状況やらなにやらを想像して楽しめましたが,この作品はストレートに「物語」としておもしろく読めました。

03/01/26読了

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