白石一郎『怒濤のごとく』文春文庫 2001年

 「一生懸命に働いて生きていると,自分も気づかぬうちに裏切り者と呼ばれておった。そんなこともある。いや,そのほうが多いかもしれぬな」(本書より)

 中国では明王朝が落日を迎え,海上にはヨーロッパ船が勢力をしだいに伸ばしはじめ,日本はその門戸を閉ざそうとする17世紀初め。中国人の父と日本人の母の間に生を受けた鄭森,日本名・田川福松,のちの鄭成功は,その激動の波の中へ我が身を投じる。歴史の流れに逆らって生きようとする彼を待ち受けている運命とは・・・

 鄭成功・・・この人物については,もうずいぶん前から関心がありました。明王朝を滅ぼし,中国全土を席巻する満州族の清に対して,海上交通という独特の手法を用いて抵抗を試みた希代の英雄・・・そのほとんどすべての歴史を中国大陸という内陸で展開させた中国史において,彼は,きわめてユニークな存在と言えましょう。そして,海洋時代小説を得意とするこの作者にとっても,必ず取り上げてしかるべき魅力的なキャラクタでもあります。

 さて本編は,その鄭成功の一生を描いた一代記であり,物語は彼の誕生から幕を開けます(その,その後の波瀾万丈のストーリィ展開を予想させる,鮮烈で力強いオープニングは見事です)。ですが,作者は,単に彼の生涯を追うだけではなく,もうひとり重要なキャラクタを丁寧に描き込んでいきます。それは成功の父親鄭芝龍です。一介の海賊からのし上がり,ついには明王朝の将軍へと出世,巨大な軍事力と財力でもって南海に君臨した「海上王」・・・もちろん,芝龍が成功の父親である以上,重要なキャラクタであることは間違いありませんが,作者は,芝龍と成功とをコントラストな性格として設定することによって,物語にダイナミズムを与えることに成功しています。
 芝龍は,骨の髄からの「商人」であり,すぐれた商人がみなそうであるように徹底したマキャベリストでもあります。彼にとって守るべきは鄭一族であり,求めるものは一族の繁栄です。その目的の前に,「皇帝」も「王朝」も道具でしかありません。目的達成に役立てば使うし,邪魔になれば排除します。それは,海賊として,商人として生きていた彼の「生きる知恵」であるとともに,一族とその繁栄こそが,彼の頼るべきアイデンティティであるとも言えます。
 一方の成功は,幼い頃,父親と離れていたとはいえ,「鄭氏の嫡男」であり,生まれながらにして巨万の富と強力な軍隊を持っています。父親が,それらを「築き上げる」ことでアイデンティティを形成してきたのに対し,成功にはそのアイデンティティ形成の契機は与えられません。また一族に対しても,日中混血であることがもたらす微妙な立場ゆえに,ストレートにアイデンティファイするのを妨げられます。その結果が,明王朝への思い入れへと結びついていくのでしょう。
 たしかに母親のおまつを清軍によって殺されたことや,滅亡に瀕した明王朝に対する愛国心が,彼を「抗清復明」の理由になのでしょうが,それとともに父親との対照によって浮かび上がる彼のパセティックな性格こそが,強力なモチベーションとして設定されているといえましょう。そこに,この作者の用意周到なストーリィ・テリングの妙技があるとも評せましょう。

 なお本書は,1999年の「第33回 吉川英治文学賞」を受賞しています。

02/01/06読了

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