篠田真由美『ドラキュラ公 ヴラド・ツェペシュの肖像』講談社文庫 1997年

 1912年4月のある夜,ロンドンに住む老作家のもとにひとりの青年が訪れてきた。青年は,「あなたの小説のために,ある人物のイメージが著しく貶められている」と老作家を告発する。そして彼は語り始める,“ドラキュラ公”ブラド・ツェペシュの真の姿を・・・。

 ブラム・ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』のモデルとされた,15世紀の東欧・ワラキアの君主,“串刺し公”ヴラド・ツェペシュ。彼は,宿敵オスマン・トルコを敗退させたことから,キリスト教国の英雄とまつりあげられる一方,敵や裏切り者に対する情け容赦ない厳しい処罰のやり方から,“龍の息子”“悪魔の息子”と恐れられます。その姿は,彼に敵する者たちにより,ゆがめられ,誇張され,そして『吸血鬼ドラキュラ』のヒットにより,冷酷残忍なサディスト,快楽殺人者として世界的に広まります。
 本書は,そんなイメージが定着したブラド・ツェペシュを,巨大帝国オスマン・トルコとヨーロッパの狭間で,君権強化によってワラキアを独立国として確立しようとした一代の英雄として描いています。つまり巷間に伝わる“ドラキュラ公”の悪しきイメージを,払拭することを意図した作品です(それだけが目的ではないでしょうが)。
 物語は,ヴラドの一生を,彼の小姓シャムスの眼を通じて,描いていきます。彼の冷酷な政治手腕は,ワラキア独立のための必要不可欠な一手段として位置づけられています。ですから,新たな“ドラキュラ像”を創り出すという点では,なかなか興味深いものがあります。
 ところが物語は後半にいたると,“歴史もの”から“歴史伝奇もの”へとその姿を変えていきます。ヴラド自身は,悪魔も神も信じない合理主義者として描かれますが,彼の小姓シャムスや,彼の“妻”ライラは,キリスト教よりも古い大地の“神”(キリスト教にとっては“悪魔”)の力を借ります(それがこの物語全体の大きな伏線にもなっているのですが)。
 もし,先に書きましたように,本書が『吸血鬼ドラキュラ』によって歪められたドラキュラ公のイメージを払拭する意図があるのだとしたら,このような幻想小説的な描き方,手法は,残念ながらあまり有効ではないように思います。つまり,この作品で描かれたドラキュラ公は,『吸血鬼ドラキュラ』と同じ土俵に立った,フィクショナルな存在としてのイメージが強くなってしまい,「この作者の描いた“ドラキュラ公”は,どこまで本当なのだろうか?」という疑問が残ってしまいます。ただ,「本当の姿はこうなんだ!」というより,同じ“ヴラド・ツェペシュ”という素材を用いて,『ドラキュラ』とは違う“ドラキュラ公”のイメージを描き出した作品ではないかと思います。ですから,この作品で描かれたヴラド・ツェペシュの姿が,歴史上の人物としてどれだけ正鵠を射たものなのかどうかは二の次なのかもしれません。

 それにしても女性作家は,“血塗れの美形キャラ”というのを,好んで取り上げる傾向にあるようですね。この作品は,イタリアの悪名高きマキャベリスト,チェーザレ・ボルジアに新たな光を当てた塩野七生の『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』といった作品に一脈通じるものがあるのかも知れません。
 それと黒髪の“サド目系”と金髪の“たれ目系”という組み合わせは,青池保子のマンガあたりによく見られるパターンですね(笑)。

98/09/14読了

go back to "Novel's Room"