スティーヴン・キング『ドロレス・クレイボーン』文春文庫 1998年

 「もっと始末に負えないのは,不幸がときには滑稽であるってことだよね。あんまり滑稽なんで,悲惨な目に遭いながらも,笑いださずにいられないことだってあるのよ」(本書より)

 「そりゃあ,たしかにヴェラ・ドノヴァンは,しみったれた性悪女さ。だけど,あたしは殺しちゃいないよ。あたしが殺したのは亭主さ。そうだよ,30年前に,あのろくでなしのジョー・セント・ジョージを殺したんだよ。このリトル・トーン島が皆既日食の闇に覆われたときにね・・・」

 ほぼ全編,主人公のドロレス・クレイボーンという老婆のモノローグからなる作品です。舞台はどうやら警察の取調室,富豪ヴェラ・ドノヴァンの死をめぐって,彼女のもとで長年家政婦として働いていたドロレスから事情を聞く,という設定です。
 ドロレスとヴェラとの確執と不和,それでいてどこか相互依存を思わせる奇妙な生活が,毒々しいユーモアに彩られながら,ヴェラの口から語られていきます。しかし彼女の話は,ヴェラの話から,30年前に死んだ彼女の亭主ジョー・セント・ジョージへと移っていきます。ジョーの飲酒癖と暴力,そしてもうひとつ,ドロレスによって明らかにされる彼の“許せない行為”・・・。キング特有の,ねっとりとした粘液質な文体で,彼女の苦悩と焦慮とが描き出され,ストーリィは,運命の日―1963年7月20日の皆既日食の日へとつながっていきます。
 ここらへんで,冒頭にイントロみたいな感じで出てきたヴェラ・ドノヴァンとの関係が,深く絡んできます。「しみったれの性悪女」とドロレスが呼ぶヴェラのもとで,彼女がなぜ長年に渡って家政婦を勤めていたのか,という“秘密”が明らかにされ,さらにそれはヴェラの死の謎へとリンクしていきます。このあたりの展開の妙は,やはり巧いです。
 ふたりの関係はけっして明文化されるような,利害関係のようなはっきりしたものではありませんが,「女というものは,ときには性悪になるしか,しかたがないときだってあるの」というヴェラと,それに同意するドロレスという,暗い過去を共有し,また同じような境遇をもつもの同士の共感に満ちた関係です。しかし明確でないがゆえに,ふたりふたりは,(あまり好きな表現ではありませんが)「魂」の奥底で深く結びついていたのかもしれません。
 「性悪女」―そのレッテルは,けっして自分自身でみずからに貼るものではありません。周囲の人々―とくに男―が貼るものです。「安全地帯」にいる人々が,「修羅」を生きる人間に貼るレッテルなのでしょう。しかし「あたしは性悪女だよ」と宣言すること―それは周りの評価を一見受け入れているようでいて,そのじつ,「性悪女」でなければ生き延びることのできなかった,大事なものを守ることのできなかった主人公たちの,力強くも哀しい叫びなのかもしれません。

 文庫版約350ページと,最近のキング作品としては比較的短い部類に属しますが,章立てなし,空き行なしで綿々と綴られる彼女の独白を読み進めていくのは,一種の息苦しさ,重苦しさを感じます。それはよくいえば「緊張感」であって,とくに「運命の日」前後からラストにかけての緊迫感は,ぐいぐいと読ませるものがありました。

 「訳者あとがき」によれば,この作品は『黙秘』と題されて映画化されているとのこと。主演は,映画版『ミザリー』で好演(怪演?)したキャシィ・ベイツだそうで,これはぜひ見てみたいですね。

99/01/24読了

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