半村良『どぶどろ』扶桑社文庫 2001年

 この感想文は,作品の内容に深く触れているため,未読で,先入観を持ちたくない方には不適切な内容になっています。ご注意ください。

 「苦労ってのは,てめえが何かをしようとして,そのときはじめてぶつかるもんだ」(本書「いも虫」より)

 頃は天明,江戸は銀座の“岡っ引き”半吉は,夜鷹蕎麦の老人が殺された事件に関わりを持つ。しかし,それは単に発端に過ぎなかった。事件を追う半吉の前に現れたのは,欲と打算にまみれた亡者どもの醜い地獄絵図。“新しい目”を持ってしまった半吉を待ち受ける運命とは……

 「昭和ミステリ秘宝」の1冊。本書を読む直前(2002年3月4日),この作者の訃報が伝えられました。SF小説,伝奇小説,時代小説,風俗小説…幅広いジャンルを手がけ,なおかつ数々の佳品をものした氏が,エンタテインメント小説界に残した足跡は大きなものがあったと言えましょう。謹んで哀悼の意を表します。ちなみにこの作者の個人的ベストは『産霊山秘録』です。

 さて本編は,7編の短編−「いも虫」「あまったれ」「役たたず」「くろうと」「ぐず」「おこもさん」「おまんま」−と1編の長編−「どぶどろ」−よりなるという,一風変わった構成を取っています。7短編で描かれているのは,江戸の市井に生きるさまざまな庶民たちの姿です。庶民たちを通して描かれる,したたかさであり,怯懦であり,哀しみであり,諦念であり,愛であり,憎しみであり,希望であり,貧困です。それぞれのエピソードが,そんな庶民の等身大の姿を巧みに切り取ってみせています。
 これら独立性の高い連作短編ののちに,最後の長編「どぶどろ」が配されますが,“この字の平吉”を主人公とする本編には,その短編の登場人物たちが勢揃いします。「どぶどろ」において彼らは,ある者は被害者になり,ある者は平吉と協力して事件を追い,またある者は犯罪に荷担します。短編で描かれた性格をそのまま受け継ぐ者もあれば,意外な「転身」をしているキャラもいる,といった具合です。短編のキャラたちが長編でどのような役割を果たすのか,そのへんが読み進める際での,ひとつの楽しみになっています。

 しかし短編の「効用」はそれだけではありません。短編でくっきりと描き出された庶民の姿は,長編におけるメイン・モチーフ−権力や金の亡者たちの冷酷で醜い争いと,そのために無辜の人々を情け容赦なく切り捨てていく非情さとの見事なまでのコントラストをなしています。キャラたちの心の襞を丁寧に描き込んだ短編があるからこそ,「上つ方」「どぶどろ」のおぞましさ,むごたらしさが鮮やかに浮かび上がってきます。
 さらにこの作品に「凄味」を与えているのが,作者の冷徹な視線でしょう。庶民の哀感と権力者たちの闘争……両者を対比させながら展開する物語は,平吉の,親とも兄とも思って慕っていた岩瀬家の人々や山東京伝に対する徹底的なまでの幻滅として描き出されてきます。とくに権力闘争を,まるで第三者のような視点で眺める山東京伝を「知恵持ち」として,やはり「どぶどろ」の一員として設定している点は秀逸ですね。
 そして物語は,読者のカタルシスへの希求を拒絶するような形で幕を閉じます。「情」を描きながらも,「情」に流されないストーリィを設定し,逆に「情」の非力さ,もろさ,それゆえにこそ持つ哀しみと美しさを浮き彫りにする本作品には,作者の奥深い人間観察と作家としての技量の確かさが,見事に現れていると言えましょう。「情を描く」ことは,「情におぼれる」「情に流される」こととは,まったくの別物であることを改めて感じた作品です。

 ところで巻末に宮部みゆきのエッセイ「平吉の“幸せ”」が収録されています。無惨な物語をあえて「“幸せ”」と呼ぶユニークな視点は,同じく時代小説の秀作を多く発表している彼女ならではのものなのでしょう。

02/03/10読了

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