エリック・アンブラー『ディミトリオスの棺』ハヤカワ文庫 1976年

 「いかにも惨めな話だ,そう思わないか? ヒーローもヒロインもいない,いるのは,悪党と愚か者だけだ。あるいは,愚か者だけ,と言うべきか?」(本書より)

 チャールズ・ラティマーは,トルコ秘密警察長官サキ大佐から,犯罪者ディミトリオスのことを聞き,その死体を見ることになる。ミステリ作家として,ディミトリオスに好奇心をかき立てられたラティマーは,トルコからギリシャ,ブルガリア,そしてフランスへと,彼の足跡を追っていく。しかしラティマーの周囲には,怪しげな男たちが徘徊し始める。男たちの目的は? そしてディミトリオスとはいったい何者だったのか?

 高校時代にチャレンジするも,あえなく挫折したスパイ小説の古典的作品です。

 本書を読んでいて連想したのが,大藪春彦のデビュー作『野獣死すべし』の主人公伊達邦彦です。伊達は,太平洋戦争の戦火の中で,完膚無きまでに人間性を崩壊させられたキャラクタとして設定されています。つまり伊達の冷酷な犯罪の遠因を戦争に求めています。
 本編の「真の主人公」とも呼ぶべきディミトリオスが,最初の犯罪を犯すのは,1922年,トルコ軍によって一夜にして12万人もの人々が虐殺された町スミルナです。作者は,この大虐殺とディミトリオスのキャラクタとの因果関係を描いているわけではありませんが,どこか伊達邦彦と通じる部分があるように思えてなりません。
 そしてディミトリオスが暗躍する1920年代,人類が初めて経験した全世界規模での殺戮戦−第一次世界大戦直後のヨーロッパであることも関係するのかもしれません。ディミトリオスの犯罪は,何人かの人物によって語られますが,それは列強同士の暗闘に絡んだスパイ戦であり,あるいはまた麻薬密売を生業とする秘密組織であったりします。
 前者のスパイ戦では,グロデックという引退したスパイの元締めが,ひとりの男を騙して軍の機密を盗み出させようとする経緯−陰惨で冷酷なおぞましい経緯と,ディミトリオスとの関係を語ります。グロデックは,欺き,陥れ,脅し,そのために人生を破滅させた男を,「売国奴」と罵って,一片の同情さえも寄せません。
 あるいはまた,後者の麻薬密輸のエピソードは,ディミトリオスのかつての仲間−ディミトリオスによって裏切られた仲間によって語られます。その男は,麻薬の持つ恐ろしさを十二分に知っていながら,みずからその売買に手を染めることを恥じていません。「どうせ誰かがやるなら,俺がやればいい」程度にしか思っていません。
 つまりディミトリオスという,ひとりの「悪」は,けっして彼だけの個人的資質に還元されるものではない−作者は,そんなことを言っていているように思います。戦争という名の虐殺,冷酷なスパイ戦,無慈悲な犯罪組織…いわば「人間性の喪失」という「時代の病」を一身に背負ったキャラクタとして,ディミトリオスは措定されている,そんな気がしてなりません。

 そして「時代の病」が,現代においてけっして癒されていないこと,いや,むしろ悪化し,蔓延していることを思うとき,この作品の持つ暗い輝きが失われることはないのではないでしょうか?

03/08/17読了

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