フレッド・チャペル『暗黒神ダゴン』創元推理文庫 2000年

 「さあ,どんな様子かよく見るんだよ。おまえもお父さんと同じように,いつか,あんなふうになってしまうかもしれないからね」(本書より)

 祖父母から受け継いだ屋敷に住むことになった牧師リーランド。そこで,意味不明の書き付けと,屋根裏部屋の壁に取り付けられた一対の手錠を見いだしたことから,彼の心の均衡はしだいに崩れ始め,妻への殺意を膨らませていく。さらに彼の農場の借地人モーガン一家の娘ミナ―魚類を連想させる奇怪な容貌を持った娘に,心ならずも惹かれていくリーランドは,悪夢のような魔界へと足を踏み入れていく・・・

 H・P・ラヴクラフト自身が,みずからをアウトサイダと考えていたせいでしょうか,彼の作品には,しばしば社会に対して違和感を抱え込んだ,内省的で腺病質なキャラクタが登場します。センシティブであるがゆえに,異界からの波動に感応し,感応するがゆえに魔界へと引き込まれていくキャラクタです。
 その魅力的な「異界」や「魔界」の枠組みは,「クトゥルフ神話」として,多くの後続者を産みだしていきました。しかし,すでに知られている枠組みやアイテムを共有しているため,その結末における意外性や独創性に欠ける作品も多々見受けられます。いわば「金太郎飴」的な内容に終始している部分もあることは,否定できないように思います。

 本編もまた,作中において,「クトゥルー」「ダゴン」「ヨグ・ソトト」といった,クトゥルフ神話ではお馴染みのアイテムが散りばめられています。しかし,この作者は,そういった枠組みを後景のように描くのみで,むしろ,主人公ピーター・リーランド牧師の心の崩壊を綿密に描き込んでいきます。
 父親が謎の死を遂げたことから,自分自身もいつか同じような悲惨な死を迎えるのではないかと不安を抱えているリーランドは,その不安を克服するために牧師になりますが,祖母の遺した屋敷に住むことで,その不安がふたたび頭をもたげてきます。とくに屋根裏に残された一対の手錠が,父親の無惨な姿を思い出させ,みずからもまた同じ道をたどるかもしれない恐怖を喚起します。つまり「自分が自分でもわからないもの」へと変化してしまうという恐怖,自分の中に自分でも把握していない「得体の知れないもの」を抱え込んだ恐怖です。そこに,物語の前半で示されたイメージ「ダゴン」の影が見え隠れしている点,クトゥルフ神話的といえますが,それ以上に,このような内的な恐怖は,すぐれて,近年のサイコ・サスペンス的,モダン・ホラー的な傾向とは言えないでしょうか? 作者は,それまでのプロセスと,さらに妻の殺害を契機として彼が陥る不条理ともいえる苦難を,グロテスクに描き出していき,主人公の心を徹底的なまでに崩壊させていきます。
 このような主人公の造形は,上に書いたように,ラヴクラフトが好んで取り上げたキャラクタに近いように思われます。つまりラヴクラフト的世界のもうひとつの側面―センシティブな登場人物が直面する恐怖―を掘り下げていった作品と言えるのではないでしょうか。そういった意味で,凡百の「クトゥルフ神話」とはひと味もふた味も違ったテイストの作品に仕上がっています。

 作者が詩人であるせいか,ラストの処理は抽象的で,いまひとつ判然としないところもありましたが,息苦しくなるほどの濃密な描写によって醸し出される世界は,コズミック・ホラーに直面した人物の内面に焦点を当てた「クトゥルフ神話」と呼べるでしょう。

00/09/17読了

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