瀬名秀明『BRAIN VALLEY』角川文庫 2000年

 この感想文は,作品の内容に深く触れていますので,未読で先入観を持ちたくない方はご注意ください。

 「科学とは,神と対話することである」(本書より)

 船笠村の山中に建つブレインテック脳科学総合研究所−通称“ブレインヴァレー”。脳神経学者・孝岡護弘は,その研究所にヘッドハンティングされ,脳の記憶に関する研究を進めていく。しかし,彼が引き抜かれた真の理由は,研究所内で秘かに進行する「オメガ・プロジェクト」に協力することだった。そして,不思議な能力を持つ船笠鏡子と接触して以来,彼の身体に変化が起こり・・・

 「神とはなにか?」という問いをメイン・モチーフとしたSF作品は,けっして少なくないと思います。海外作品については詳しくは知りませんが,日本であれば,たとえば光瀬龍『百億の昼と千億の夜』山田正紀『神狩り』といった,日本SFを代表するいくつかの作品を思い浮かべることができます。SF的想像力にとって,この「神とはなにか」という問いは,おそらくきわめて魅力的なテーマなのでしょう。この作品も,そんな「神テーマSF」の流れをくむ1編となっています。

 物語は前半,さながら脳をめぐる学術論文のような雰囲気をもって進行していきます。シナプスがどうの,レセプターがどうの,NMDAR3がどうの,おまけに統計表やら写真やらが出てきて,バリバリの文系であるわたしとしては,正直,なにがなにやらさっぱりわかりません。ひたすら「字面」を追うばかりです(笑)。途中から,アブダクションやら臨死体験など,「トンデモ系」の胡散臭い話題が出てきて,ホッとするのですが(笑),それまた脳内の活動で説明され,またまたお手上げ状態。おまけに,人工生命などの話も絡んできて,「最後まで読み進められるだろうか?」という不安に苛まれます^^;; でも,ハナ秦野真奈美とのコミュニケーションを描いた,チンパンジィの言語習得能力をめぐるエピソードなどはけっこう好きなので,そこらへんは楽しめました。

 しかし,これら前半部分は,後半の畳み掛けるような展開の,いわば助走段階です。「科学」の言説によって理詰めに押し進められてきた物語は,「閾値」を超えた瞬間,爆発します。アブダクションや臨死体験という迂回路を経て,脳と「神」との関係が語られ,さらにコンピュータ内に発生したデジタル生命は,新たな「神」を招来します。脳→神→コンピュータ→デジタル生命→新たな神の具現,というプロセスは,作中においてじつに見事に整合し,まるでミステリの「解決編」を読んでいるような痛快感を感じました。
 しかも,作者はさらなる「どんでん返し」を用意しています。メイン・コンピュータOMEGAにつながれたチンパンジィのハナの存在は,「神」と「人間」という関係から,「神」と「生命」というレベルへと物語を押し上げ,ストーリィにさらなる転回をもたらします。また途中で挿入された「ミクロとマクロ」をめぐる議論−ミクロの集合体としてのマクロ,そのマクロによるミクロに対する規制・影響−は,クライマクスへと至る重要な伏線として機能しています。つまり,人間にとっての「神」をマクロとすれば,人間はミクロな存在です。一方,生命という,より広い視野に立つとき,人間にとっての「神」もまたミクロな存在といえるかもしれません。ラストにおいて,具現化した人間にとっての「神」は,より大きなマクロの存在と,人間というミクロの存在との狭間で崩壊していきます(船笠鏡子が,具現化した「神」を目前にして「・・・わたし」とつぶやくシーンは,じつに象徴的です)。
 作者は,そんな「神」の具現から崩壊までを,圧倒的なまでの筆致で描き出しています。そしてそれはまた,主人公の再生でもあります。息子が運転する自動車に乗った孝岡が見る「自分の知らない未来」とは,「脳」の活動には還元しえない人間の,生命の「未来」なのかもしれません。

01/01/07読了

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