高見広春『バトル・ロワイアル』太田出版 1999年

「絶望的な話に聞こえるよ」
「絶望的な話なんだ」
(本書より)

 瀬戸内海に浮かぶ,直径2qほどの孤島。そこが今年の「プロジェクト」の舞台だった。香川県城岩中学3年B組,42人の生徒は,いやおうなく「ゲーム」に参加させられる。最後のひとりになるまで,互いに殺し合う「ゲーム」に・・・。疑心暗鬼と恐怖,そして狂気と虚無が,ひとり,またひとりと彼らの命を奪っていく。「ゲーム」の「勝利者」はいったい誰か? しかし「勝利」とはいったいなんなのか?

 世に「○○文学賞受賞作」(あるいは「最終候補作」)として売り出される小説は,星の数ほどありますが,「某社ホラー小説大賞落選を売り文句にした作品は,きわめて少ないのではないでしょうか? 巻末の「From Editors」によれば,選考委員からボロカス言われ,「反社会的」ということで落選した,とあります。
 じゃぁ,どこらへんが「反社会的」なのかな? と読み終わってから考えてみますに,おそらく「子供(中学生)同士が殺し合う」というシチュエーションが,「反社会的」と呼ばれた理由のひとつなのではないかと思います。「子供が殺人を犯す」ということに対する,タブーにも似た拒否反応―その背後には「子供は純粋だ」とか「子供に罪はない」といった幻想が見え隠れしているようにも思います。「From Editors」でも触れられている「酒鬼薔薇事件」が,(マスコミの煽りもあったとはいえ)あれほどの社会的衝撃を与えたのも,事件の残虐性だけでなく,犯人(と被害者)が「子供」であったことによるからでしょう。社会が共有していると思っていた幻想が,それこそ幻想でしかなかったことに対する衝撃だったのでしょう。
 しかしミステリやホラーの世界では,「恐るべき子供たち」は,幾度となく繰り返されてきたモチーフでもあります。大人たちの死角・盲点をつくようにして犯罪を行う子供たち―それが何度も取り上げられるのは,上に書いたような「幻想」を打ち砕くインパクトを持っているからではないでしょうか? この作品は,その死体の数は破格かもしれませんが,ミステリやホラーが綿々と持っていた伏流のひとつの表現型とも言えるのではないでしょうか?

 さて物語の枠組みは,孤島に投げ込まれた42人の中学生たちが最後のひとりになるまで,互いに殺し合う,という,いたって単純なものと言えましょう。彼らが「殺し合わなければならない」状況に追い込まれる“ルール”もシンプルなもので,そのシンプルさゆえに,作中人物曰く「よくできている」ものです。しかし作者は,そのシンプルな設定に,さまざまなキャラクタを投げ込むことで,多彩なドラマを描き出していきます。殺し合うことに耐えられず自殺するカップル,ルールを無視し皆が共同するよう呼びかける少女たち,それを冷酷に撃ち殺す少年,小さなきっかけで崩れていくチーム,恐怖ゆえに愛するものに殺されてしまう少女・・・それらは多少類型的な感がないわけではありませんが,一本調子になりかねない単純な設定にも関わらず,物語としての膨らみと広がり,そしてストーリィにメリハリを与えているように思います。そして「誰が敵で,誰が味方かわからない」という,常套的ではありますが,力強いシチュエーションが,緊迫感を盛り上げています。
 さらに作者は,もうひとつ仕掛けを施しています。冒頭に掲げられた「政府連絡文書」は,今回の「プロジェクト」に,何者かの介入があったことを示しています。その「介入」が,「ゲーム」(=ストーリィ)の展開にどのような影響を与えるのか? 主人公たちに,それは「吉」と出るのか? それとも「凶」と出るのか? が,「謎」としてつきまとい,緊張感を醸し出しています。

 やや文章にぎこちないところはあるとはいえ,大冊ながら一気に読み通すことのできる,スピード感とスリルに満ちた佳作と言えるのではないでしょうか?
 そしてまた,今回の出版の経緯は(少なくとも「From Editors」を読む限り),新人賞の乱立と,その相対的権威の低下,読み手の側の嗜好の多様化など,エンタテインメント系小説の今後を占う上で,興味深い一例かもしれません。

99/11/15読了

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