水木しげる監修『妖かしの宴 わらべ唄の呪い』PHP文庫 1999年

 サブ・タイトルからもわかりますように,「わらべ唄」をモチーフとしたホラー作品10編をおさめたアンソロジィです。

 監修者は,あの水木しげるなわけですが,じつは,わたし,「本当に監修したのかな?」という疑問を持ってます。というのも,本集には「ヤマタノオロチ」という水木作品(もちろんマンガ)が入っているのですが,これが「わらべ唄」とは,どうもまったく関係なさそうなのです。アンソロジィのメイン・テーマと関係のない作品を掲載する「監修者」というのは,ちょっと想像しにくいです(もし,本当に「監修者」だったら,逆に監修者としての見識を疑ってしまいます)。てなわけで,本アンソロジィは,「異形コレクション」と違って,「監修者」というのは「名前だけ」と思えてならないのです。

 まぁ,そんなことはともかく,モチーフとなっている「わらべ唄」は,その「意味の曖昧さ」あるいは「無意味さ」から,ホラー作品とは馴染みやすい性質のものだと思います(イギリスのマザー・グースと似たような感じですね)。たとえば,本書でも取り上げられている「ずいずいずっころばし」「カゴメ」など,「もしかすると,なにやら奥深い意味が隠されているのではないか?」と思わせる歌詞で,いやがおうにも想像力をかきたてるものがあります。
 さて「わらべ唄」というのは,その名の通り,「わらべ」「子ども」の頃に歌ったり,聞いたりした唄です。ですから,わらべ唄をモチーフとしたホラーというと,そのわらべ唄にまつわる「封印されたおぞましい記憶が蘇る」といった,いわゆる「記憶もの」というパターンが,もっとも頻繁に目にするものと言えましょう。
 わたしとしては,「記憶ものホラー」というのは嫌いではありません,というより,はっきり言って好きです・・・好きなのですが,このアンソロジィみたいに,「記憶ものホラー」がやたらと多いと,さすがに読んでいて,少々食傷気味になってしまいます。
 たとえば新津きよみ「郵便屋さん―タイムカプセル」,矢島誠「花いちもんめ―そして誰もいなくなる」,西谷史「たこ凧あがれ―とむらい凧」,樋口明雄「蛍こい―まぼろしの渓奇譚」など,いずれも「記憶もの」の範疇に含まれるでしょう。また秋月達郎「ずいずいずっころばし―茶壺」は,「ずいずいずっころばし」をめぐる推理が繰り広げられる点,ちょっと伝奇的なテイストがあるとはいえ,やはり「記憶もの」へと収束していきます。「わらべ唄=子ども時代の記憶=記憶もの」という図式の氾濫は,どうしても「芸がない」という印象を拭えません。
 もちろん,全部が全部「記憶もの」というわけでもありません。藤水名子「ひらいた ひらいた―一番初めは」は,わらべ唄とパチンコというユニークな組み合わせの作品です。ただ「前振り」が長すぎる感があり,ストーリィの緊張感にいまひとつ乏しくなっているように思います。また高瀬美恵「籠女―鳥の祝(ほ)ぎ歌」は,「籠女」という言葉の持つ,不気味なイメージ喚起力を用いた作品です。「ぼんやりとした得体の知れない不気味さ」というテイストを目指した作品と思えるのですが,どうも焦点が定まらず,盛り上がりに欠けるうらみがあります。
 本アンソロジィで楽しめた作品というと,加門七海「今年の牡丹―花影」と,霧島ケイ「通りゃんせ―夏,訪れる者」の2編でしょうか。「今年の・・・」の方は,兄弟の確執を幻想的な文体で描き出しています。また「通りゃんせ」は,ネタ的には比較的よく見かけるものとはいえ,現とも夢ともつかぬ周囲の状況に戸惑う主人公の姿がくっきりと浮かび上がっています。

 それと,いくつかの作品で気づいたのですが,やたらと小難しい漢字を用いる作品が多いようにも思います。もちろん,そんな漢字も,全体の雰囲気にマッチした使い方であれば,それなりに効果的ではありますが(京極夏彦とか中井英夫とか・・・),普通の文体の中に挿入されると,「浮いている」といった感が強く,むしろ読むリズムを滞らせるという点で,逆効果になってしまうのではないでしょうか?

99/12/20読了

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