ドナルド・E・ウェストレイク『斧』文春文庫 2001年

 「今日,われわれの倫理規約は,目的が手段を正当化するという考えの上に成り立っている」(本書より)

 リストラで,20年間勤めてきた会社を馘首になった“わたし”バーク・デヴォアは,再就職に向けて奔走するが,専門性の高い希望職種は競争率が高く,なかなか思うように見つからない。焦った“わたし”はひとつの妙案を思いつく。つまり,潜在的なライヴァルたちを殺してしまえばいいのだ,と・・・

 「殺意」というのは,どのようにして形成されるものなのでしょうか?
 たとえば自分に苦痛と屈辱をもたらした人間に対する復讐としての殺意,同じ会社の同期の出世レースのライヴァルに対する嫉妬と欲望による殺意,日々の生活の小さな齟齬や不和が積もり積もって醸し出される夫あるいは妻への殺意などなど・・・これら,ミステリ小説で定番ともいえる殺人の動機=殺意は,基本的には身近にいる人間,目の前にいる人間に対して向けられるものです。語弊があるかもしれませんが,殺意とは,愛情や憎悪と同じように,他者に対する強い思い入れの一形態と言えないこともありません。
 おそらくその対極にあるのが「戦争」です。戦争では,同じように殺人が行われます。しかし,戦争における「殺人」は,けっして相手に対する思い入れがあるわけではありません。たしかに身内のものを殺した「敵」に対する憎悪はあるかもしれませんが,それは特定個人に向けられるのではなく,その相手の所属する集団や組織,国家に向けられるという点で,上に書いたような「殺意」とはかなり性質を異にしています。ですから戦争においては,「人を殺す」のではなく「敵を倒す」のです。そして今やハイテク戦争の時代,その「敵」の姿さえも視認せずに「倒す」ことが可能になってきています。

 さて本編で描かれる主人公による殺人劇,これは最初に書いたような「殺意による殺人」−被害者に対する深い思い入れの裏返しの殺人というよりも,むしろ「戦争」における「殺人」−「物」としての「敵」を排除するための「殺意なき殺人」に近いのかもしれません。
 そのことを端的に表しているのは,主人公が殺すべきライヴァルたちを,好んでイニシャルの略称で読んでいることでしょう。たとえばハーバート・コールマン・エヴァリーHCEといった具合です。名前はたしかに記号です。しかし固有名称は,その人物の独立した人格をも表しています。映画版『羊たちの沈黙』の中で,娘を誘拐された母親が,テレビを通じて誘拐犯に対して娘の返還を訴える際,娘の名前を繰り返します。それは誘拐犯が娘を「物」ではなく,人格を持った「人」であることを思い出させる目的があると説明されていました。ですから逆に,本作品の主人公は,その固有名称をさらに略称化することで,殺す相手を徹底的に「記号化」していると言えましょう。それゆえ,上記のエヴァリーと,もうひとりのライヴァルハウク・カーティス・エクスマンは,ともに「HCE」という同じ記号に還元されます。そしてそれは,戦争時において「敵」というレッテル貼りによって,つまり記号化によって,相手が「人」であることを兵士に忘れさせることにも通じるわけです。
 けれども,このような記号化は,ある意味,主人公だけの特性ではありません。作中において,主人公は,偽りの募集広告でライヴァルたちの履歴書を手に入れます。そしてそこに書かれている内容により,主人公は殺すべき相手を選択します。主旨こそ違え,一般の企業もまた,履歴書と簡単な面接によって採用者を決定します。言い換えれば,履歴書という記号化された「人格もどき」によって,採用・不採用が決定されるわけです。つまり,企業の人事方法をそのまま採用することによって,主人公は殺す相手を決めている,逆にいえば,主人公の犠牲者選択方法こそが,社会一般で通用している人事方法なのです。
 ですから本作品の持つ不気味さは,単に主人公が「殺意なき殺人」を繰り返すことだけではなく,その主人公の行動原理こそが,現代社会に内在する基本的なルール−それは冒頭に掲げられた文章に象徴されています−に沿ったものである,という点にあるのではないでしょうか。さらにいえば,一見,戦争のない「平和」な状態にありながらも,その実態は戦争時と同じ「倫理規約」によって動いているという不気味さなのではないでしょうか。

01/04/06読了

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