マイケル・イネス『アプルビイの事件簿』創元推理文庫 1978年

 「シャーロック・ホームズのライヴァルたち」シリーズ中の1冊。ロンドン警視庁の警部サー・ジョン・アプルビイを主人公とした短編9編を収録しています。

「死者の靴」
 列車で左右色違いの靴を履いた男が目撃された頃,崖から墜死した男も色違いの靴を履いていた…
 「履き違えた靴」という「日常の謎」的なオープニングから,国際的な陰謀が絡んだ殺人事件へと繋がっていき,ワクワクするような展開ですね。またミステリ的にはさほど複雑ではないと思われる「履き違えの靴」の謎を,もうひとひねり加え,さらにラストで活劇を挿入することで,スピーディでスリルあるお話づくりにしているところは巧いです。ある行為の「不自然さ」にアプルビイが気づくところがおもしろかったです。
「ハンカチーフの悲劇」
 『オセロー』上演中,殺される役のデズデモーナが本当に殺害されてしまい…
 劇中における「殺人シーン」で,実際に殺人事件が起こってしまうという趣向。舞 台上の容疑者のうち,殺害の機会があったのは誰かを導き出すため,劇でのセリフの 「間」を引き合いに出してくるところがおもしろいですね。
「家霊(いえだま)の所行」
 アプルビイ夫妻が訪れた廃屋。そこで出会った牧師は,昨晩,この屋敷で悪霊を目 撃したという…
 この作品も「死者の靴」と同様,最初に比較的シンプルな謎−牧師が目撃した “パーティ”−を提示しながら,そこから死体の発見へと,事件を急展開させていく 筆運びの巧みさが光る作品ですね。死者との関係が深く,その死によって利益を得る ふたりの証言は,いったいどちらが正しいのかというサスペンスが,後半のストー リィの強い牽引力になっています。その上で明らかにされる真相−牧師のやや狂信的 な語りで明らかにされる真相は,どこかブラック・ユーモアを感じさせますし,また アプルビイもちょっと「人が悪い」ですね(笑)
「本物のモートン」
 アプルビイが“私”に見せた1枚の写真…それに込められた秘密とは…
 アプルビイが過去の事件を“私”に語るというショート・ミステリです。戦争で顔 がすっかり変わってしまった男は,はたして本当に遺産の相続者なのか?という謎解 きを描いています。「写真」の持つ意外な特性に着目したワン・アイディア・ミステ リとして楽しめます。
「テープの謎」
 国家機密とも関係した高名な科学者が失踪した理由は…
 戸川安宣の「解説」によれば,「死者の靴」や本作品は1950年代の中頃に発表され たようで,科学者と国家機密,それを狙う「敵」という設定は,もしかすると当時の 米ソ冷戦構造を背景にしているのかもしれません。そのせいか,謎解き趣向もさるこ とながら,失踪した科学者を追いかけるアプルビイや,けれん味たっぷりの奪還劇な ど,冒険小説的なテイストも色濃く持っています。
「ヘリテージ卿の肖像画」
 何者かによって公開直前に肖像画を差し替えられた画家は,その直後,謎の死を遂 げ…
 なぜ肖像画は差し替えられたのか? 画家の死は自殺なのか他殺なのか? という 謎を,ユニークな角度からのアプローチで構成しています。アプルビイの推理は,物 的証拠に基づきながらも,人物の性格や心理状態を手がかりに繰り広げているところ が特徴のひとつで,その持ち味がよく現れた作品です。
「ロンバード卿の蔵書」
 アプルビイが所蔵する1冊の本。そこに込められた恐るべき悪意とは…
 「本物のモートン」と同じ体裁のショート・ミステリです。アプルビイの推理よ り,犯人の発想のユニークさがじつにいいですね。
「罠」
 電話で呼び出されたアプルビイが,その科学者の家を訪れると,すでに彼は殺され ていた…
 トリックがいかにもイギリスらしいですね(詳しく書くとネタばれになるので,ご 容赦)。アプルビイのちょっと「浮いた」描写が,事件解決へ の重要な伏線になっているところは上手いです。クライマクスに活劇を持ってくるの は,この作者のお得意のパターンのようですね。
「終わりの終わり」
 大雪で自動車が立ち往生したアプルビイ夫妻は,近隣のゴア城へと避難するが…
 いわゆる「雪密室」の変形ヴァージョンなのですが,前振りがやや長く,それに対して事件の勃発から解決までが,妙に早い,そんなアンバランスな印象を受けます。冒頭に「雪密室」を描いて謎を提示した方が効果的では?とも思いましたが,そうすると「あのシーン」が伏線であることが見え見えになってしまう気もするし,と,なかなか難しいところです。

02/11/21読了

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