北森鴻『冥府神(アヌビス)の産声』カッパノベルズ 1997年

 帝都大学医学部教授で,脳死認定推進派の吉井原義が刺殺された。5年前,脳死判定を巡って吉井と対立,大学を辞めた相馬研一郎は,独自の調査を始める。そして2年前,やはり吉井研究室を辞職したかつての同僚・九条が,新宿のホームレスの中にいることを知る。いったい彼と教授との間にはなにがあったのか? そして相馬に急接近する製薬会社のプロパー“時尾”の思惑は? 相馬の調査で浮かび上がる脳死と臓器移植を巡る国家的な意志。いったい“死”とはなにか,そしてそれは誰が決定するのか? 神か,人か?

 1997年4月24日,臓器移植法案が衆議院を通過。脳死は,良かれ悪しかれ,人の死として政府のお墨付きを得たことになります(まあ,一応参議院もありますが・・・)。そういった意味ではタイムリーな作品といえるのかもしれません。

 死とは,ひとつのプロセスである,という文章を読んだことがあります。死の認定とは,その時間的な経過の一点で線引きして,生の側と死の側とを区分することなのでしょう。その線引きの基準は,当たり前といえば当たり前ですが,死者自身によるものではなく,死者を取り巻く生者によってなされる以上,その生者の属する時代や地域によって,異なります。当然,生者の死生観や信仰などともに,生者の世界の人間関係や利害関係が密接に関わってきたとしても不思議ではありません。「脳死」の場合には,そこに臓器移植という問題がつねに関係しています。もちろん,臓器移植が人の命を救うひとつの医療手段として存在することは正当なことですし,それを待つ患者さんがいることも,ないがしろにしていいことではありません。
 ただ,作中においても描かれていますように,医療関係の企業と,それと密接に結びつく(癒着する)厚生省との思惑が,「脳死」を巡る議論に影を落としていることもまた事実なのでしょう。
 「死とはなにか」とか「死の認定」という問題は,けっして神の領域の話でもなく,ましてや死者自身のものでもなく,生身の,生きている人間そのものの問題なのだということを,あらためて感じた作品でした。

 物語としては,やはり「脳死」という専門的で,またデリケートなテーマを扱っているせいでしょうか,どうしても説明描写が多くなりがちですが,それでもけっこう読みやすかったです。九条が身を置く新宿ホームレスについて描かれているところも,物語にふくらみを与え,おもしろく読めました。とくに“トウト”という少女の存在は,人間の脳のもつ不可思議さなるものの象徴だったのでしょう。
 ただ個人的には,「脳死」を巡って,どこに議論の論点があるのか,というところをもう少しつっこんで書いてくれた方が,わかりやすかったのかもしれません。なんか登場人物を「推進派」と「慎重派」に色分けしているだけのような気もします。まあ,そこらへんがストーリー展開のスムーズさとの折り合いの付け所の難しさなのでしょうが。
 それから三森仁美の存在は,たしかに相馬と九条を結びつける上で重要な役割を果たしていますし,真相にいたるさいにも手がかりとなっています。また逃亡した“トウト”の保護者的な役割でもあるわけで,けっしてストーリー上,不要なキャラクターというわけではないのですが,どうも落ち着きが悪いような気がします。結局,事件の渦中でもなく,かといってまったくの部外者でもないという,中途半端な立場のせいなのでしょう。
 それに対して,桃園製薬の自称プロパー“時尾保”というキャラクターは,なかなか味わいのある悪役でした。「過酷な時期を過ごした」と言っているわりに,妙に単純な主人公より良かったのではないでしょうか(笑)。「トキヲタモツ」という名前もなかなか意味深長なネーミングですし・・。

97/04/26読了

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