吉村昭『アメリカ彦蔵』新潮文庫 2001年

 嘉永3年(1850),はじめての航海で難破した若き船乗り・彦太郎(のちの彦蔵)は,大海を漂う途中,アメリカ船に救出される。9年後,アメリカ市民として帰国した彼を待っていたのは幕末の動乱だった。数奇な運命をたどった彦蔵が見た“世界”とは・・・そして時代の大きな変転とは・・・

 本書を読み終わってまず感じたことは,井上靖『おろしや国酔夢譚』で描かれた大黒屋光太夫とのコントラストです。難破の末,シベリアを彷徨し,エカチェリーナ女帝と謁見,艱難辛苦の果てに帰国した光太夫を待っていたのは,死ぬまでの長い長い軟禁生活でした。「世界」を見てきた彼の経験や知識は,その時代において危険なものとみなされ,隔離されてしまいます。
 一方,ペリーが来航し,幕府がついに開国した時代に帰国した主人公アメリカ彦蔵の経験と知識−とくに英語能力−は,アメリカからも,日本からも必要なものとされ,彼を時代の最前線へと導きます。このことは彦蔵だけではなく,彼とは別ルートで帰国した同船の清太郎らが,西洋船やその航海術を知っている水夫として,藩から厚遇されたことにも現れています。同じ帰国した漂流民でありながら,時代の違いは,両者の運命を大きく変えてしまいます。
 しかしじつは,この運命の違いは,大黒屋光太夫を持ち出すまでもなく,本編の中でも十分に描かれています。それは香港で彦蔵たちが出会った漂流民力松の姿に象徴されています。彼は,イギリス商船・モリソン号に乗って故国を目前にしながら,砲撃によって接岸さえも拒絶され,異国の地で生きざるを得なくなった人物です。彦蔵は,力松の中に「なっていたかもしれないい自分自身」を見ますが,彼らの運命を分けたものは,まさに「時代」としか言いようのないものなのでしょう。

 物語は,言うまでもなく,幕末日本の動乱とアメリカの南北戦争をともに経験し,三代のアメリカ大統領−うちひとりはあのリンカーン大統領−と会い,握手を交わすという稀有な体験の持ち主である,アメリカ彦蔵の数奇な人生を縦軸にして進んでいきます。そして,そんな彦蔵が出会うさまざまな人物たちとの交流を,この作者特有の,淡々とした,そして丹念な筆致で描き出していきます。とくに彦蔵を我が子のように愛し,また彦蔵もまた慈父として敬愛するサンダースとの出会いと別れは感動的です。抑制された文体であるがゆえに,ちょうど映画で言えば,けっして「感動を盛り上げるぞ!」的なBGMはないけれど,その美しいロング・ショットの映像で,サンダースと彦蔵との別れを描き出しているかのように思えます。
 また作者は,彦蔵と同時代の漂流民たちの歩んだ人生も,丁寧に跡づけていきます。先に記した,香港の力松や上海の乙吉といった,異国の地でその人生を閉じた漂流民や,アメリカ船に救助され,サンフランシスコにやってきた勇之助七三郎一行,ハワイで偶然出会い,彦蔵の代わりに日本へ向かった政吉,イギリス公使館の通訳として帰国するも攘夷派の侍に斬殺されてしまう伝吉などなど・・・当時,いかに日本の漂流民が多かったかを示しています。逆に言えば,アメリカが太平洋に本格的に進出する以前,ポテンシャルとしての漂流民が膨大な数に上っていたであろうことを暗示しています。
 作者が,これほどまでに漂流民にこだわるのは,傑作『漂流』があるように作者自身の関心によるところもあるでしょうが,それとともに,「成功した漂流民」であるアメリカ彦蔵がたどった人生が,他の漂流民のように,きわめて不安定で危ういものであったことを浮かび上がらせようとしたからなのかもしれません。
 そしてまた,作者はアメリカ彦蔵の姿の中に「漂流者の孤独と哀しみ」を見ます。アメリカ公使館の通訳官を辞した彦蔵は,横浜で日本ではじめての新聞を出します。そのとき,自分の日本語能力が13歳で止まっていることに気づきます。また明治になって故郷に戻った彼が見たものは,自分の心の中にあった「美しいふるさと」ではなく貧しい寒村にすぎず,そこには暮らせない自分でした。そして自分自身の「戒名」でした。彼は自らの人生を回想して,こう思います。
「自分が今でも坊主船に乗って漂い流れているような気がする」
 彦蔵は,漂流民としては他に例を見ないほどの成功を手にいれます。たしかに漂流という苛烈な体験は,彼に多くのものをもたらします。もちろんそこには彼自身の努力もあったことは間違いありません。しかし,それだけでは癒されない「漂流民との孤独と哀しみ」もまた同時に,彼の心中にありつづけたのでしょう。

01/08/14読了

go back to "Novel's Room"