山本周五郎『赤ひげ診療譚』新潮文庫 1964年

 「人生は教訓に満ちている。しかし万人にあてはまる教訓は一つもない」(本書「駈込み訴え」より)

 3年間,長崎で蘭方医学を学んだ保本登。江戸に戻ったのち彼を待っていたのは,約束されたはずの幕府の御番医の席ではなく,小石川養生所での見習医としての身分だった。彼は,そこで“赤ひげ”と通称される医師・新出去定に出会う。最初,頑固で独裁的な彼に反発した登であったが・・・

 さて歴史時代小説の,押しも押されぬビッグ・ネームであります。『樅の木は残った』など,その作品名はいくつか目にし耳にしたことはありますが,今回が初読です。この作品,三船敏郎主演で映画化もされていますが,たしかNHKでドラマ化もされていたのではないでしょうか? そんな,薄ぼんやりとした記憶があったため,最初のとっかかりとして,本作品を選びました。

 連作短編集の体裁をとる本作品は,プライド高い青年医師(の卵?)保本登が,“赤ひげ”こと新出去定と出会い,反発しながらも,しだいに“赤ひげ”の医師としての姿に感化され,成長していく,ビルドゥング・ロマンという側面を持っています。それとともに,各短編において,貧しい庶民をめぐるエピソードが描き出されていきます。
 しばしば,時代小説の謳い文句に,「市井の庶民の哀感を綴る」というのがありますが,本作品も,庶民の姿を描いているとはいえ,はたしてそんな安直なフレーズで括ってしまっていいのか,ためらいを感じます。この作品で,庶民に向けられた,ときに冷たく,ときに暖かく,ときに諦念に満ちた奥深い眼差しを思うとき,上記のフレーズが,すごく薄っぺらなものに感じられてなりません。
 たとえば「鶯ばか」という作品では,終わることのない貧しさの中で,息子長次が泥棒を働いたことをきっかけに,一家心中をはかる五郎松一家の姿が描かれます。登らの手当もむなしく子ども4人はすべて死んでしまいます。母親の「生きて苦労するのは見ていられても,死ぬことは放っておけないんでしょうか」という問いに,登には返す言葉がありません。また作品のタイトルになっている「鶯ばか」とは,やはり貧しさのため,自分が「千両の鶯」を捕まえたという幻想にとらわれた男のことを意味しています。
 作者は,そんな貧しさの中で死に,狂っていく庶民の姿を描くだけでなく,さらにおきぬという,じつにふてぶてしい女性を登場させます。五郎松一家の心中のきっかけともなったこの女性は,長屋の皆から「出て行け」と罵られながらも,奸計を用いて長屋に居座ります。ラストで,このおきぬが叩き出されれば,一種の「勧善懲悪」的な爽快感が得られるかもしれませんが,むしろ作者はそれを拒否し,おきぬを通じて,貧しさの中の,あるいは貧しさゆえのふてぶてしさ,強靱さ,したたかさを同時に描き出しているように思います。五郎松一家・「鶯ばか」とおきぬとは,コントラストをなしていながら,ともに「庶民」の姿として捉えられてるのではないかと思います。
 また「おくめ殺し」では,先代大家が店賃をとらないことを約束していたにもかかわらず,息子の二代目が長屋の者に立ち退きを迫るという確執を描いています。「なぜ先代は店賃を取らなかったのか?」という謎を中心にすえたミステリ仕立ての作品になっています(「おくめ殺し」というミステリアスなタイトルも一役買っていましょう)。長屋の者たちはトリックと脅迫を用いて,二代目に立ち退きを撤回させるのですが,そこには痛快感がある一方で,「ここまでやる必要あるのかな?」という「弱者ゆえの悪意」のようなものが感じ取れます。

 たしかに本作品では「庶民」を描いていますが,それは,「庶民」が,いやさ人間が持つ悪意や狂気,欲望といったドロドロとしたものまでをも見据えた上での描写であるように思います。

02/01/10読了

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