新田次郎『アイガー北壁・気象遭難』新潮文庫 1978年

 「わたしにははっきり分かっているのよ,あの人は,山にいくと,山に心を奪われる人なんだわ,山と死との区別がつかなくなる不幸な人なのよ」(本書「氷雨」より)

 14編を収録した短編集です(そうなんですよね,昔の文庫本は,これくらいの厚さで,これくらいの編数が入っていたんですよね)。

 毎冬のように,雪山での登山者の遭難がニュースが流され,その多くが「声なき帰還」という痛ましい結果になっているのを見ると,雪山での「遭難率」というのがどの程度のものなのか,気になります。しかしもちろん,遭難の「率」が高かろうが低かろうが,遭難する個人個人にとっては,それは,他の人には替わってもらえない事件です。ですから,個々の遭難には,それに遭遇した人々のドラマがあります。
 登山の経験も趣味もないわたしではありますが,本書を読んでいて,「遭難するか,しないか」,さらには,その遭難で「生きるか,死ぬか」という分かれ目は,紙一重の差なのではないか,というような気持ちになりました。

 たとえば冒頭の「殉職」は,昭和33年に富士山の測候所で実際に起こった遭難事故をモデルにしています。26年の経験を有するベテランの職員が,ほんのわずかな「気のゆるみ」ゆえに遭難してしまいます。また「白い壁」の出てくる3人の登山家のうち,ひとりは立ち位置が少しだけ違っていたために,雪崩の被害を免れ,さらに雪崩に巻き込まれたふたりのうち,ひとりは生き残り,もうひとりは死にます。彼らの生と死を分けたもの…たしかにそこには合理的な理由を見いだすことは可能でしょうが,「なぜ,彼はそこに立っていたのか?」という問いには,「偶然」という言葉しか返ってこないでしょう。
 一方,雪山には,そんな不条理とも言える遭難が起こりながら,登山者の側にも,その遭難を誘発する因子が隠されていることを,作者は描いているように思います。表題作となっている「気象遭難」は,天気の読み違いという直接の原因はあるものの,それとともに主人公の山岳会に対する屈折した思いが,遭難の遠因になっていますし,また「山の鐘」「山雲の底が動く」では,男女間の愛憎が,遭難へとつながる「引き金」になっています。
 雪山という,ただでさえ人間の力ではどうしようもない「力」が働く場において,人間の側がその「力」を「一押し」してしまうことも,おそらくけっして少なくないのでしょう。それゆえに遭難は,俗世間から離れた「遠い世界」の事件ではないのかもしれません。だからこそ遭難は,「率」という数値からはうかがい知ることのできない「個性」を持っているのでしょう。
 そのことは同時に,遭難した人間が,まったく無力ではないことを意味しています。それをよく表しているのが「万太郎谷遭難」です。主人公の女性登山家は,「ひとりで山登りをする女として好奇の目で見られたくない」という気持ちから,人の少ない尾根を選び,遭難します。ただし作者は,それを「無謀」とレッテル張りをするのではなく,遭難した状況の中で,力一杯生き延びようとする彼女の姿を描くことで,むしろ彼女の登山家としての有能さと矜持を浮き彫りにしています。

 ところで本集に納められた作品は,多くが日本を舞台にしていますが,「アイガー北壁」「ホテル氷河にて」「オデットという女」「魂の窓」は,ヨーロッパが舞台となり,若干,他の作品とは異なるテイストを持っています。とくに,イタリア・オーストリア国境にある山岳地帯で,主人公が出会った不思議な女を描いた「オデットという女」は,狂気にも似た奇妙な女の「情熱」が,じんわりと伝わってくるサイコ小説っぽい手触りがあります。おそらくこの作者の「本道」とは言えない作品なのかもしれませんが,じつは,本集で一番気に入っている作品です。

02/12/05読了

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