久生十蘭『顎十郎捕物帳』朝日文芸文庫 1998年

 頃は幕末,古袷に冷飯草履,はげちょろ鞘の両刀を鐺さがりに落としこみ,へちまのような顎をさげ,間抜けた風情の男だが,おつむの方は天下一品,江戸随一の捕り物名人。本名,仙波阿古十郎というものの,そのトホンとした奇相から,着いた綽名が“顎十郎”。難解奇怪な事件の数々,バッタバッタと切りまくる・・・。

 ミステリ・ファンの方であれば,『名探偵事典』といった類の本を,1度や2度,ご覧になったことがあると思います。わたしも中学の頃,その手の本を読み,この“顎十郎”こと仙波阿古十郎の名前を知りました。その個性的なネーミングから,長いこと記憶にとどめていたのですが,その後,アンソロジィで1,2編,目にすることはあっても,まとまって読む機会がありませんでした。ですから,今回の文庫化はじつに嬉しい限りです。

 さて本作品は,顎十郎の活躍を描いた短編集で,初出はいずれも1939年から40年にかけて。先人の作品を貶すわけではありませんが,戦前の作品とは思えぬほどのスマートさ。そのスマートさも,西洋風のそれではなく,江戸前風とでもいいましょうか,講談,落語を聞くような洒脱さです。おまけに,なんとも奇想に満ちていて,奇妙奇天烈な謎を顎十郎がすらすらと解いていく,といった体裁のきっちりとしたミステリでもあります。

 たとえば「遠島船」は,相模灘で発見された無人の遠島船,船の中は,ついいままで人がいたかのような様子,いったい乗員はどこに消えたのか? という,さながら「マリー・セレスト号の謎」のような事件を解いてみせます。また「都鳥」では,馬の毛を切り盗る謎の盗人,舶来の帯に縫い込まれた都鳥,尼の溺死体,といった,顎十郎自身が言っているように,落語の「三題噺」のような謎を,するすると結びつけていきます。このほか,「紙凧(たこ)」では,警戒厳重なこと一通りでない「金座」から,どのようにして三万二千両もの大金が盗み出されたか,「蕃拉布(ハンドカチフ)」では,誰も近づくことのできない状況で,被害者はいかにして絞殺されたのか,「両国の鯨」では,見せ物小屋の鯨は,一瞬のうちにいかにして姿を消したのか,「ご代参の乗物」では,13人もの腰元はいったいどこにかき消えたのか,などなど,魅力的な謎が目白押しです。それに用いられているトリックも,初出の年代を考えれば,なんとも独創的で,楽しめます。個人的には,「紙凧(たこ)」に用いられているトリックが奇抜でおもしろかったですね。また,読者の前にすべての手がかりが提示されている,というわけではありませんが,顎十郎の目のつけ所,謎解きのプロセスは小気味よく,読んでいて清々しさ,爽快感があります。

 それとなんとも愉快なのが,顎十郎の設定で,前半では,北町奉行所の例繰方という,過去の調書や判例を調べる役で,一応はそれなりの役職があるのですが,とある事件(「菊香水」)で,あっさり役職を退き,就いた仕事が駕籠かきというところが,ふるっています。そのくせ本人はいたって気楽に日々を過ごしているところが心憎いです。
 また登場人物たちも,顎十郎の叔父で,北町奉行所与力の森川庄兵衛,十郎の手下,蚊トンボのひょろ松,後半,十郎とともに駕籠かきをする“とど助”こと雷土々呂進(いかずちとどろしん)など,いずれも魅力的なキャラクタです。江戸情緒あふれる文章で描かれる彼らの姿は,ときには洒落ていて,ときにはユーモアに満ち,ときには人情味があり,読んでいて心地よいです。

 長いこと「読みたい,読みたい」と思っていた作品は,期待が大きすぎる分,いざ読んでみると,あまり楽しめないこともままありますが,この作品集については,期待通り,いやさ,期待以上のものだったと思います。

 ちなみに都筑道夫が『新顎十郎捕物帳』というのを書いているようです。いかにも都筑道夫が好きそうな世界です。そちらも読んでみたいですね。

98/05/01読了

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