柾悟郎『ヴィーナス・シティ』ハヤカワ文庫 1995年

 「情報と情報操作は同義語だ。客観的な情報なんてものはありえない」(本書より)

 “ヴィーナス・シティ”…それは高度に発達したネットワーク・システムが産み出した仮想現実空間。その“世界”で,男に転換している森口咲子は,何者かに襲われる少女を助けたことから,トラブルに巻き込まれる。現実世界では男である少女“ジュンコ”は,謎の人物に脅迫され,むりやりヴィーナス・シティに入れられたという。彼女を守ろうとする咲子。だが,現実世界でも咲子に対する介入がはじまり…

 古いSF作品を読むと,その「想像力の方向性」みたいなものが感じられます。以前読んだ1960年代の作品では,「ロケットカー」や「エアカー」が行き交う近未来において,「新聞」や「公衆電話」が使われていました。「交通系」「動力系」においては進歩していても,「情報系」においては,ほとんど進歩していない「未来」でした。もちろんその一作品をもって普遍化することはできませんが,「想像力」もまた否応もなく「時代」の刻印を押されているのだなと思いました。
 さてなんでこんなことを書いたかというと,この作品で“ヴィーナス・シティ”と呼ばれるヴァーチャル・リアリティの世界=「情報系」が進歩した世界が描かれていることが「現代的である」と評したいからではありません。むしろ,本編で設定されている21世紀初頭の「日本」が,バブル経済が崩壊しなければ,たどったかもしれない「未来」として描かれているように思えるのです。つまり,本作品での,日本の家電製品と情報ネットワークが世界を席巻し,欧米の大企業は日本企業に買収され,各国から白人たちが日本に出稼ぎに来るというシチュエーションは,日本企業がつぎつぎとアメリカの大企業を買収し,「Japan as No.1」「日本的経営の勝利」などとおだてられて舞い上がっていたバブル期の日本の「姿」を肥大化させたように思えてならないのです。
 本編の単行本が1992年に刊行されていることを考えあわせると,ここにも,まざまざと「時代の刻印」が押されているような気がします。

 しかし設定の方向性における齟齬はありますが,この作品の着想のメインとなっている“ヴィーナス・シティ”は,その具体化の手法はSF的ではありますが,その「世界」は,現在のインターネット社会から連続するような方向性を持っています。たとえばそれはシティ内における匿名性であり,あるいはまたそこから派生する性別の未詳性,「現実」(本編では「物理界」と呼ばれます)と仮想空間との間の乖離と混交など,多少なりともインターネットを使って他者とのコミュニケーションをはかった人間にとっては,けっして「絵空事」ではない側面を持っています。それゆえに,読み進めながら「馴染んだ感覚」を感じる一方,逆に言えば,SF的な斬新さ,新奇さにやや欠ける部分もあるのは,致し方ないかもしれません(それは発表年からすでに10年を経過し,その間の情報系技術の進展とインターネットの普及も,この感じを強めているのかもしれません)。
 だからといって,この作品がつまらないわけではありません。むしろ,作中の冒頭から散りばめられるさまざまな謎‐ジュンコとは何者なのか? 脅迫される“彼女”が知っている「秘密」とは何なのか? そして脅迫者の正体は?‐が,ストーリィの牽引力となり,スピーディに物語を押し進めています。さらに“ヴィーナス・シティ”でのサキ=咲子の追跡劇と,「物理界」でのそれとが交錯しながらの展開は,ちょうどミステリにしばしば見られる手法に通じるものがあり,ストーリィに緊迫感を産み出しています。そういった意味で,SF的な発想を楽しむというより,サスペンス小説的なおもしろさの方がまさっているように思います。
 ただ,今度はそういった視点で読むと,ラストの処理が,少々「薄味」の観があり,もっと「タイム・リミット」的な状況を有効に利用して,盛り上げてほしかったというミステリ者としての不完全燃焼感もあるのですが…(<う〜む,なんとも欲張りな感想だ^^;;)

02/11/03読了

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