光瀬龍・萩尾望都『宇宙叙事詩・上』ハヤカワ文庫 1995年

 光瀬&萩尾コンビというと,やはり『百億の昼と千億の夜』を思い出します。原作とマンガ化作品がともに傑作という希有なパターンです(最近の同じような幸福な結合として夢枕獏&岡野玲子の『陰陽師』があります)。この作品もふたりの作品ですが,『百億の昼』とは違い,光瀬龍の短編に,萩尾望都がイラストをつける,という体裁のものです。そのイラストは,2色刷というのでしょうか,黒色と赤系統の色の2色で描かれ,セピア色の古い映画を見るような趣があります。また光瀬作品の雰囲気をよく表していると思います。
 この作品はかつて『SFマガジン』に連載され,B5版の上下巻で出版されました。わたしが中学生の頃,友人から借りて読んだ記憶があります。先日,メールをよくくださる織里さんとの間で,この本が話題にあがりました。偶然というのは不思議なもので,そのすぐのちに,文庫版の本書を,上巻だけですが,手に入れることができました。10数年ぶりに,この不思議な雰囲気を持ったSF作品を堪能しました。
 しかし,やはりもとのB5版の方で読み返してみたいと思うのは,欲張りでしょうかね?

 光瀬作品と聞くと,わたしはいつも「廃墟」をイメージします。数年前,中国の新疆ウィグル自治区を訪れる機会があり,かつて繁栄を誇ったオアシス都市の遺跡をいくつか見ることができました。遺跡は暑い夏の陽光に照らされ,空気は乾き,そして風に運ばれた砂が,人が住み,往来していた家屋や道路の隅に積もっていました。
 考古学者は,廃墟から掘り出された土器のかけらから,彼らの生活を復元し,民族学者は,周囲の村の古老が言い伝える伝説に,廃墟の人々の「想い」の痕跡を探し出すかもしれません。また歴史学者は史書の異本の中に,その都市の名前を見いだすのでしょう。そして小説家は,その廃墟に吹く風の音を聴きながら,想像の翼をもって,廃墟がかつて体験した,「あったかもしれない歴史」を創り出すのだと思いました。
 光瀬作品の場合,「廃墟」はシルクロードの砂に埋もれた楼蘭のときもあれば,火星の失われた文明もあり,また膨張した太陽に飲み込まれる寸前の地球の場合もあります。しかし,物語が廃墟から始まる以上,やはり終わりもまた廃墟です。そこで起こったさまざまな出来事,繁栄と享楽,愛憎と苦悩,不和と戦い,それらはたとえどんな華やかであろうと,また悲惨であろうと,いずれも伝えるものさえなく,時の彼方に流れ去り,砂の中に埋もれてしまっています。そこには「ものごとはけっしてそのままのかたちでありつづけることはできない」という,(しばしばいわれますように)作者の「仏教的無常観」が色濃く出ているのではないかと思います。
 ただ光瀬作品の魅力は,そんな圧倒的な時の流れを前にした人間の無力さを描きつつも,その流れの中のかすかな,はかない光を,あるいはその光の残像をすくいあげる暖かな目にあるのではないかと思います。

 中学の頃,この作品を読んで,長いこと心に残っていた一文にふたたび巡り会えました。わたしのおつむのなかでは,かなり変形していましたが,一目,思い出すことができました。

旅人よ そこで止れ
あれは石の堆積だ
動かない生命の堆積だ
祭を祝う人の輪でなく
                  「ある記録4」より

97/07/15読了

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