皆川博子『死の泉』早川書房 1997年

 この感想文は,未読で,先入観を持ちたくない方には,あまりお薦めできない内容になっていますので,ご注意ください。

 1943年,私生児を身籠もったマルガレーテは,ナチスの施設「レーベンスボルテン(生命の泉)」で男児を出産する。そして施設の医師クラウスと結婚するが,時代は彼女と息子たちを押し潰していく。15年後,深い因縁に導かれた人々は深き森の中で再会を果たす。欲望と狂気,憎悪に彩られた再会を・・・

 濃密な世界です。時代の,国家の,そして個人の,欲望,愛憎,不安,保身,打算,恐怖,嫉妬,密告,裏切り,殺戮,破壊,暴力,狂気で彩られた,さながら細密に描き込まれた地獄絵のごとく,グロテスクで絢爛たる濃密な世界です。
 たとえば「生命の泉」と題された第1章。「アーリア人の優越」を狂信し,人体実験を厭わない医師クラウスは,一方で芸術を愛する人物です。しかしその絵画は,ユダヤ人やツィゴイネル(ジプシィ),他国民から奪い取ったものであり,美しいボーイ・ソプラノは,「カストール(去勢)」という人体改造によってもたらされた異形の美です。あるいはまた主人公マルガレーテは,自分と息子のみの安全のためにクラウスの求婚を受け入れ,ひとときの安楽で平和な生活を送りますが,周囲の人々の嫉妬と反感,密告,裏切りを招き,ついには殺人をもたらします。さらに,「レーベンスボルテン」に端を発した狂気,怨恨,憎悪,復讐の念は,15年の歳月を経て,ミュンヘンでふたたび燃え上がります。

 作者は,時代の狂気に翻弄される人々の姿とその復讐劇を突き放したような冷徹な視線で描き出していきますが,それとともに,作中,繰り返し,ゲルマン神話を挿入します。ロキが産ませた3人の子ども。狼のフェンリル,蛇のヨリンゲル,躰の上半分が生き,下半分が死んでいるヘル。そして世界の終末を告げる予言―フェンリルは万物の父を飲み込むであろう,という・・・。
 それはたしかに,物語の雰囲気を増幅させるアイテムと呼べないこともありませんが,それ以上に,この物語の持つ陰惨さが,けして「現代」に限られたものではないことを示唆しているように思います。不吉な予言ゆえに桎梏されたフェンリルの憤りと咆吼,フェンリルを縛るために腕を食いちぎられたひとりの神の不条理と哀しみ,そして世界の終末に訪れる破壊と殺戮・・・それらは,この物語の舞台と登場人物たちの心と行為に共振し,共鳴しているように思えます。
 「神話」が人々の,民族の心の奥底から産みだされたものだとするならば,神話が語る「闇」もまた,何度でも蘇るのかもしれません。それは人の心の「闇」として,あるいは時代の「闇」として・・・。
 そういう風に見ると,この作品に出てくるキャラクタたちは,いずれも「神話的異形さ」を持っているように思えてなりません。冷酷と知性と狂気を併せ持ったクラウス,時間を拒否するマルガレーテ,ジェンダーを剥奪された異能人エーリヒとミヒャエル,トリック・スターともいうべき役回りのゲルト,10歳にして妊娠,出産したレナ・・・。ならば,この物語は,時代と場所という限定を持ちながらも,異形の人々が織りなす異形の物語―人々の心の奥底に眠る「核」が現代という衣をまとって現出した「神話」とも見なせるのではないでしょうか?

 この物語で作者は,ラストにおいてもうひとつの「仕掛け」を施します。本書は,ギュンター・フォン・フュルステンベルクが書いた『DER SPIRALIG BURGRUINE(螺旋状の廃城)』の訳本という体裁を取り,翻訳者の野上晶が書いた「あとがきにかえて・・・」という一節が末尾に入っています。作者(皆川)は,そこで「もうひとつの結末」を用意することで,この物語の持つフィクショナル性を浮上させます。それは同時に,原著における結末が,けして狂気の終焉を意味していないことを暗示します。はたしてクラウスの―ナチスの―狂気はその死をもって幕を引いたのか・・・それとも・・・

 「神話」に終わりはありません。世界の創世から終末までを繰り返し繰り返し語ります。たとえそれが狂気に彩られ,血にまみれた異形の神話であったとしても・・・

98/06/06読了

go back to "Novel's Room"