麗羅『桜子は帰ってきたか』文春文庫 1986年

 ソ連軍の侵攻で混乱を極める満州。恩人・安東真琴の遺言を果たすべく,朝鮮人青年クレは,安東の妻・桜子とともに日本を目指した。36年後,安東夫婦の遺児・久能真人の前に現れたクレ。「桜子さんは帰ってきましたか?」 両親は満州で死んだと信じていた真人は,クレの問いに愕然とする。そして折から来日していた中国残留孤児のひとりが毒殺され,クレはその重要参考人として手配されることに…

 まずは関係のない話で恐縮ですが,高校生の頃,エリック・クラプトンをよく聴いていました。とくに彼のデレク&ドミノス時代の名曲「いとしのレイラ」が,彼の華麗なギター・プレイを楽しめる曲としてお気に入りでした(最近,三菱自動車のCMで使われていたので,耳にされた方も多いかと思います)。まぁ,要するにそんなわけで,この作者名を最初に書店で見かけたときは,作品の内容とは関係なく,心惹かれるものがあったわけです。しかしそういった理由でハードカヴァを購入するような経済力をとうてい持ち合わせていなかった頃ですので(笑),結局そのときは見送ってしまい,その後,手にする機会がありませんでした(ネットで検索してみたら,この作者,昨年(2001年)亡くなられているようです)。今回,古本屋さんで発見,ようやく読むことができました。
 なお本作品は第1回サントリーミステリー大賞読者賞受賞作品です。

 さて物語の前半は,混乱する満州を舞台に,主人公クレ安東桜子の脱出行が描かれます。拠点を制圧するソ連軍,広大で苛酷な満州の原野・原生林…それを突破して日本を目指すふたりの姿は,ちょうど「流浪するお姫様と彼女を献身的に守るストイックな騎士」といった趣があります。ふたりが無事日本にたどり着き,桜子がクレに言うように,どこか日本の片田舎に安住の地を見いだすことができれば,物語は中世の騎士道物語あるいはヒロイック・ファンタジィになるのでしょうが,時代はそれを許しません。
 逃亡行の途中,盗賊に監禁された3人の日本人女性を救い出してから,「ふたりの世界」には不協和音と不安が否応もなく忍び込みます。それは生き延びるために,人を押しのけ,押しつぶす冷酷さであり,欲望です。しかしそれは時代と状況がもたらした狂気でもあります。
 そして桜子の行方が明らかにされないまま,物語の舞台は36年後の日本に移ります。日本に残されていた安東夫婦の遺児久能真人の前に,クレが姿を現します。そして真人は,母親が満州を脱出した後,密航船で日本に向かったことを知ります。真人はクレとともに母親の消息を追いますが,両親と関係の深かった中国残留孤児が箱根で毒殺されるという事件が発生,クレに容疑がかかり,彼は警察に追われます。このあたりから,サスペンスがぐっと盛り上がり,さらに12年前に「自殺」とされた祖父久能耕作の死をめぐる疑問,桜子たちと同行して唯一帰国したはずの女性の焼死などなど,36年前の満州を起点とした一連の「死」をめぐる謎が幾重にも重なっていき,ストーリィをぐいぐいと進めていきます。
 ラストにおいて,それらの「死」の謎が明らかにされます。採用されているトリックは,ミステリとしては非常にオーソドクスなものであり,また伏線も明確すぎるところがあって,ミステリ読みとしては,途中で真相はだいたいの見当がつきます。そう言った点では地味な作品といえましょう。
 しかし本編の魅力は,そんなミステリ的地味さによって損なわれることはありません。終戦直後,満州に住む日本人たちを襲った惨い運命,その中を必死に生き延びようとする人々を翻弄していく「時代」を,作者は,むしろ淡々とした文章で描き出していきます。物語の展開上,そんな「時代の冷さ」は,ひとりのキャラクタに集約されますが,作者は,それを写し出す「鏡」として,クレという,30年以上にわたって「ストイックな騎士」でありつづけたキャラクタを対置させます。
 「桜子を守る」ということを,みずからのレゾン・デテールとしたクレの姿は,あまりに痛々しくありますが,それとともに,時代の流れにおもねることなく,「信義」を核として行動する輝きを持っています。その不器用な生き方を,36年後,桜子の消息を追って,日本各地をひたすら「歩く」彼の姿でもって,作者は象徴しているように思えます。それは満州から脱出するために,原野や原生林を「歩いた」彼の姿とオーヴァラップします。そんな愚直に黙々と「歩き続ける」クレとは,戦後の経済成長の中で,日本人−それは犯人に代表されています−が失った行動原理なのかもしれません。

02/08/11読了

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