村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』1〜3部 新潮文庫 1997年

 飼っていた猫がいなくなったのが始まりだった。謎の女からの電話。加納マルタ・クレタと名のる不思議な姉妹。平穏な“僕”の生活は奇妙な色合いに彩られていく。そして妻・クミコの失踪。その背後に見え隠れする義兄・綿谷ノボルの影。“僕”は妻を取り戻すべく“井戸”の底へと降りていく・・・。

 これまでの村上作品でもしばしば“井戸”に対する言及がありましたが,本作品ではその“井戸”が重要なモチーフになっています。“井戸”とは(ありきたりな解釈かもしれませんが)「心の奥底」の象徴なのでしょう。その心の奥底の回路を通じて,妻・クミコは“僕”に救いを求めてきます。そして“僕”もまたその回路を通じて(「壁を抜けて」)彼女のもとへと到ろうとします。
 しかしその心の奥底としての“井戸”はクミコだけでなく,“僕”にとっての宿敵・綿谷ノボルにも通じている,危険で暴力的な世界でもあります。クミコを取り戻すためには,綿谷ノボルと対決しなければなりませんが,“僕”は(他の村上作品の主人公と同様)けっして暴力的な人間ではありません。しかし綿谷ノボルを倒すためには,“僕”もまた暴力を得なければ,使わなければなりません。“僕”が手に入れた野球のバットは,その暴力の象徴なのだと思います。
 1945年8月,満州で中国人を殴り殺した野球のバット。「井戸の底に降りる」ということは,“僕”に安らぎと癒しを与えてくれることであるとともに,危険で暴力を与えるような,両義的な存在なのかもしれません。人間の深層心理がそうであるように・・・(ああ,陳腐な解釈だ)。

 さてこの物語では,妻を探し求める“僕”の姿を追うとともに,戦中・戦後のノモンハン,満州,シベリアでの出来事が,間宮中尉の口を通じて語られます。間宮中尉もまた“井戸”の中で不思議な経験をし,そして満州,シベリアで“皮剥ぎボリス”に出会います。ボリスは,シベリアの強制収容所を奸知と暴力でもって裏から支配します。その恐怖政治に結果的に荷担してしまった間宮中尉は,ボリスを暗殺しようとしますが,失敗に終わります。明示されているわけではありませんが,“僕”が綿谷ノボルの仮面の下に見たものは,ボリスと同じものだったのではないでしょうか。人の心を操り,愚弄し,嘲笑し,支配しようとする冷酷で残忍な心性を見たのかもしれません。
 「間宮vsボリス」の闘いは,「“僕”vs綿谷ノボル」の闘いの陰画として存在するのでしょう。そして間宮の失敗を“僕”(とクミコ)が乗り越えることによって,「世界」は救われたのかもしれません。う〜む,なんだかS・キングの『デッド・ゾーン』を思い出させますねぇ。

 この作品は,1・2部までは,他の村上作品をどこかなぞったようで(“導くもの”としての女性,羊,井戸などなど),退屈な感じが否めませんが,第3部にはいると,突如,ストーリーが活性化し,リズムを持ってくるように思います。
 それはおそらく,上に書いたような(そして村上作品ではあまり触れることのなかった)“暴力”や“権力”の問題が取り上げられているからかもしれません。

97/11/23読了

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