牧野修『MOUSE(マウス)』ハヤカワ文庫 1996年

 「大人から切り離された子供は,<子供>という社会的カテゴリーから放たれた,人間とは別種の生き物になるのではないか」(本書「ドッグ・デイ」より)

 18歳以上の大人は立ち入れない異形の子どもたちの楽園“ネバーランド”。そこに住む者たちは,日夜,体中にドラッグを注入し続けながら,主観と客観とが混淆し,現実と幻想とが浸潤しあう日々を送っている。さながら薬漬けの実験動物を思わせるその姿から,彼らは「マウス」と呼ばれていた・・・

 「明日がないと思うなら,子どもたちよ,夜になっても遊びつづけろ」というセリフを,もうずいぶん前になりますが,金井美恵子のエッセイで読んだことがあります。それが彼女のオリジナルなのか,それとも別の作品から彼女が引用したものなのかは,忘れてしまいましたが,この作品を読みながら,久しぶりにこの好きだった言葉が,頭の中を駆けめぐりました。

 大地震と,それに続く地盤沈下により見捨てられた廃墟島“ネバーランド”,一般社会から切り離されて生きていく子どもたち,一日中ドラッグを体内に注入するために装着された“カクテル・ボード”,そのドラッグの大量使用により研ぎ澄まされた感覚・知覚は,ほとんど「超感覚」と呼べるほどにまで高められている・・・と,物語をとりまくシチュエーションは,まさにグロテスクな「近未来SF」といったところです。また夜の街の,アナーキィで猥雑な雰囲気は,どこか映画の『ブレードランナー』を連想させます。
 しかしその一方で,この作品に登場するさまざまな少年少女たちが,戦いに使うのは「言葉」です。「言葉」によって心をシンクロさせ,敵に「言葉」を囁くことで「落とし」,さらに相手をコントロールします。その姿は,いわゆる「未開社会」における呪術師であり,平安時代の(フィクション上の)陰陽師に近しいものが感じられます。自分の本名を知られることが,命に関わる危機を招くという考えは,さまざまな民族誌に見られますし,途中から出てくる「ラジオ・ゲーム」は,陰陽師が使役する「式神」といったところでしょうか?
 つまりこの作品は,SF的な舞台設定であるとともに,呪術や陰陽道に繋がるようなレトロでクラシカルなテイストも合わせ持っています。あるいはまた,呪術を「現代」に甦らせるために,SF的設定がほどこされたのかもしれません。いずれにしろ,この,パンクとレトロとのミス・マッチとも言える組み合わせが,この作品のユニークさとなっていると言えましょう。

 それとともに,わたしが本作品で一番おもしろかったのは,その幕の引き方です。この物語では,“ネバーランド”に住む子どもたちは,タイトルにあるように,「マウス」と呼ばれます。それは,ちょうど動物実験のように薬漬けの毎日を送っているからですが,この呼び名は,読者にひとつの「予感」を与えます。また第2話「ドッグ・デイ」で語られる,“ネバーランド”を外から支配する<ヴァイル>の噂,さらに第4話「モダーン・ラヴァーズ」で描かれる「外の世界」・・・その「予感」は,ますます強められていきます。そして最終話「ボーイズ・ライフ」で,“ネバーランド”は,「外の世界」からの明確な介入が描かれ,物語はカタストロフへと雪崩れ込んでいこうとします。
 この段階で,わたしは,上に書いたような「パンク&レトロ」というユニークさが楽しめたとはいえ,わりと「ありがち」なエンディングを迎えるのかな,などと思っていたのですが,作者は,最後に大きなツイストを仕掛けます。一時,その逆転に驚いたのですが,この「真相」は,まさにこの作品のメイン・モチーフとして,繰り返し繰り返し語られてきたことの必然的な結果でもあることに気づき,「はた」と膝を打ちました。
 そう,主観と客観,現実と虚構との混淆と転倒,浸潤を描き続けてきたこの作品は,まさにそれにふさわしいエンディングを迎えたと言えましょう。

00/12/10読了

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