皆川博子『水底の祭り』文春文庫 1986年

 5編を収録した短編集です。
 各編がそれぞれ独立していますし,各編すべてに通じる「共通点」のようなものがあるわけではありませんが,手法やモチーフなどにおいて近しいものが作品ごとにオーヴァ・ラップしていて,全体的にひとつの「世界」を形作っている,そんな手触りを与える作品集です。

 たとえば,何らかの異形的なアイテムを,象徴的に用いている点が上げられます。表題作「水底の祭り」は,東北地方のM**湖で,「屍蝋」が浮き上がってきたという新聞記事を発端にして,とある男女の暗い記憶が蘇るというストーリィです。この作品での「屍蝋」とは,まさにその男女の記憶の奥底(=水底)に眠っていた「記憶」のメタファでしょうし,「屍蝋」の異形性が,その記憶そのものの深刻さ,おぞましさと響きあっていると言えましょう。
 「牡鹿の首」の主人公は,剥製師の女性麻緒です。彼女は,「拾った」少年の中に,剥製にはない「生きた牡鹿」の姿を見ますが,しかしそれはラストで裏切られます。廉もまた,見た目はきれいだけの「剥製」にしか過ぎなかったわけです。
 また,兄弟と夫婦の,ふたつの歪んだ確執を重ね合わせて描いた「鎖と罠」には,もちろん現実の「鎖」−他者を傷つけるための武器としての「鎖」−が登場しますが,それとともに,「鎖」がしばしば,切っても切れない人間関係のメタファとして用いられることを考えあわせれば,この作品の「鎖」とは,登場人物たちを縛り付ける人間関係をも表しているのでしょう。

 モチーフとして,「寂寥感」が取り上げられている作品もいくつか見られます。女性の寂寥感と男性のそれとが同じなのかどうか(あるいはこういう区分自体が適切なのかどうか)は,わかりませんが,寂寥感ゆえに狂気にも似た妄執へとひた走る,哀しくも「怖い」女性の姿が描かれています。「鏡の国への招待」の主人公“私”は,老いたバレエ・ダンサーです。所属していたバレエ団の団長梓野明子の死に疑問を感じた彼女は,明子の夫や妹に疑念を募らせていきます。たとえ「憎しみ」であっても,「絆」を持ちたいと祈念する“私”の姿は,あまりに孤独で痛々しくさえあります。
 小さな劇団を舞台にした「紅い弔旗」では,主人公が,みずからの青春を賭して運営してきた劇団の瓦解を察知して,危険な「賭け」に出ます。それは「瓦解以後」に訪れるであろう,癒しようのない「寂寥感」を先取りし,それを回避(?)するためにカタストロフへと身を投げ込む狂気にも似た情念と言えましょう。
 この「鏡の国…」「紅い…」の女性主人公がともに,いわゆる「激情タイプ」ではなく,対外的にはつねに穏やかな笑みを浮かべ,冷静にものごとを処していく(と見られている)タイプであることも,その隠された「激情」の深さを描き出すのに,効果的な設定になっています。
 しかしその一方,「水底の祭り」に登場するミツエは,彼女と記憶を共有する森戸が,その記憶の重さに耐えかね,「ぼくは,疲れた」と弱音を吐くのに対し,「私は,疲れないわ」と言い放ち,その記憶を,あるいは森戸に対する愛とも憎しみとも分かちがたい情念を糧にして生きていくことを宣言します。それは一種の「開き直り」とも「強がり」ともとれますが,それ以上に「寂寥感」に押しつぶされることのないミツエのしぶとさ,したたかさが描かれているように思います。

 それともうひとつ付け加えれば,「牡鹿の首」の剥製師,「紅いの弔旗」の劇団,「鏡の国への招待」でのバレエといった,「技師」や「芸能」を素材として選んで,それぞれ独特の世界を描いているところは,どこか赤江瀑に通じるものがあるように思われます。

03/00/00読了

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