清水義範『迷宮』集英社文庫 2002年

 この感想文は,作品の内容に深く触れているため,未読で先入観を持ちたくない方にとっては,不適切な内容になっています。ご注意ください。

 「あなたにとって真実とは,自分にとって理解できること,という意味らしい」(本書より)

 記憶喪失の“私”に,記憶を取り戻すために,“治療師”から見せられたのは,ある殺人事件のさまざまな“記録”だった。24歳のOLが,アパートで絞殺され,性器が切り取られるという猟奇的な殺人事件の…“私”はこの事件といったいどのような関係があるのか? そして事件の真相は? 事件をめぐる“物語”を遍歴した末に,“私”が見いだしたものは…

 「「物語」の物語」とでも言いましょうか。
 ストーリィは,猟奇的なOL殺人事件をめぐって進行します。主人公の“私”は記憶喪失症に罹っており,自分が何者なのか,覚えていません。そんな“私”に,「実験治療」という名目で,“治療師”は,その殺人事件に関する犯罪記録や週刊誌の記事,作家中澤博久の事件についての取材記録などを読ませ,“私”に失われた記憶を蘇らせようとします。その過程で,“私”の前には,事件をめぐるさまざまなな「物語」が提示されます。
 最初の「犯罪記録」は,比較的ニュートラルな第三者的な視点から,事件の概要が語られています。しかしつぎの「週刊誌報道」になると,しだいに「物語化」していきます。犯人井口克巳の部屋から発見された「40本」ほどの非合法な,しかしノーマルなアダルト・ヴィデオは,週刊誌では「数百本」の「変態性欲ヴィデオ」へと「変貌」します。また犯罪の遠因は,ステレオ・タイプな「冷たいエリート一家」に求められ,さらに「人肉食」「多重人格」というセンセーショナリズムに彩られていきます。そんな「物語」を,中澤はこう評します。
 「そんなのは悪魔のしわざである,という断定はいちばん無邪気な自己肯定であり,自分と他者をひたすら好都合に分化しようという思いこみである」
 そして中澤は,そういった「週刊誌的物語」に隠された事件の「真実」を追いかけます。事件の関係者に対するインタビューを積み重ねることで,週刊誌が伝えた情報が,ひとつの「物語」へと収束させるために歪曲されていることを暴き出します。そして「残虐な加害者と無垢な被害者」という図式は,しだいしだいに崩れていきます。
 けれども中澤によって判明した「真実」…しかしそれを読んだ“私”は,こう指摘します。
 「どんな異常な人間でも,根本は私と同じ人間のはずだと決めつけて,なんとか井口克巳を自分のところに引っ張ってこようとしているような気がします」
 つまり「悪魔のような殺人者」という「物語」に対して,中澤が提出したのは「真実」ではなく,「自分たちと同じ殺人者」という別の「物語」でしかないわけです。それは,井口の部屋の中に,自分の小説−殺害した女性の性器を切り取り食べるという殺人者を描いた小説『あくあまりん』−を発見するという「虚構」を「取材記録」「手記」に織り込んでいることが明らかになるに及んで,その「物語性」は確定します。
 ならば犯人が供述した「供述調書」は,それらを否定する「真実」なのでしょうか? しかし「供述調書」で出てくる犯人の証言もまた,ひとつの「愛の物語」でしかありません。「愛するからこそ殺したのだ」という歪んだ論理に導かれた,自分の行為を正当化する「物語」のひとつです。
 猟奇的な事件とはいえ,事件そのものの事実関係は確定しています。しかしそれをめぐる解釈は,さまざまな「物語」を産み出していきます。そんな,相互に矛盾しながら乱反射する「物語」の果てに出てくるもの−それは“私”の沈黙と「くっくっ」という笑い声だけです。もし「真実」なるものが本当にあるとするならば,それは重なり合う「物語」の狭間に,ぽっかりと空いた「空虚」の中にあるのかもしれません。

02/06/09読了

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