ここの感想文はネタばれですので,ご注意ください!!

井上夢人『メドゥサ,鏡をごらん』双葉社 1997年

 この作品の結末について,ふたつほどの解釈を思いつきました。

 ひとつは『ドグラマグラ』的解釈。つまり,この作品は,すべて藤井陽造が自殺する前に起こった出来事である,主人公の“私”は,藤井自身が勝手に作り上げた妄想である,という解釈。新庄あずさの“呪い”によって,自殺に追いつめられた藤井の「自分の死後に,自分の死の理由を追い求める人物がいてほしい」という思いが,藤井の心の中にもうひとつの人格=“私”を生み出します。だからこそ,藤井は『メドゥサ,鏡をごらん』という作中作で,“私”の行動や心理経過を,トレースできたのです。しかし結局は,最後に“私”も,自殺直前の本来の“私”=藤井陽造に戻らざるを得ず,オープニング・シーンとエンディング・シーンが,重なり合うことで,ウロボロスの蛇のごとく,物語は終結する,というわけです。

 もうひとつは,この作品をホラーと割り切っての解釈。物語の前半で,藤井の“最後の原稿”を探す際に,ファイルを削除しても,まだコンピュータ内部に残っている可能性がある,という話が出てきます。結局,物語では,原稿はパソコン通信のプライベートディスクに残されていたのですが,このファイル云々のエピソードは,この物語の構造そのものの比喩なのかもしれません。藤井陽造の自殺をもって,新庄あずさの“呪い”は,いったん収束するはずでした。しかし藤井の残したメモと「メドゥサを見た」という書き置きは,“私”の新たな探索を招き寄せる結果になります。新庄あずさにとって,藤井の残したメモや書き置きは,いわば「削除したけれどコンピュータに残ってしまっているファイル」なのです。そういった展開は彼女の本意ではなく,なんとか藤井の死をもって,ことを終わらせたい。だから彼女は,“私”を藤井陽造に「融合」させることで,今度は完璧に「ファイル」を削除します。メモはすべて焼き捨てさせ,「メドゥサを見た」という書き置きを「菜名子」と書き換えさせることによって・・・。そして物語は,新庄あずさの“呪い”が成就する形でエンディングを迎える,という解釈です。

 この作品は多様な解釈を許すものだと思います。この作品には,上に挙げたような解釈では,十分解き明かせない,掬いきれない要素が含まれています。その「解釈の多様性」というのは,ときとして,読むものに「不安」を与えるものなのでしょう。そんなふうに感じる「不安」こそが,この作品の魅力なのかもしれません。

97/12/21読了

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