ブライアン・サイクス『イヴの七人の娘たち』ソニーマガジンズ 2001年

 「この世でいちばんの強者も弱者も,大金持ちも貧乏人も,われわれ人間の細胞はすべて,そうした驚異的な旅を乗り越えてきたもの−つまり遺伝子を運んでいるのである。これは,大いに誇りに思うべきことだ」(本書より)

 母から娘へ…母系で継承される“ミトコンドリアDNA”。そのわずかな突然変異を調べることで,目には見えない人々の繋がりが見えてくる…ロシアで発見された遺体は,ロマノフ王朝最後の皇帝一家なのか? 南太平洋に住む人々の故郷はアジアなのか,それとも南アメリカなのか? ネアンデルタール人と現代人との関係は? そして7つのグループに分けられたヨーロッパ人は,それぞれに“一族の母”がいた…

 小説ではなく科学ノンフィクションです。ですが,小さな手がかりを追いかけながら,壮大な人類の歴史と“旅”を描き出していくその展開は,下手なエンタテインメント小説よりはるかにおもしろい。
 その“手がかり”となるのが,“ミトコンドリアDNA”。母系のみで受け継がれるDNAです。同じミトコンドリアDNAを持つもの同士は,どこかで必ず共通の母親を持つこと,さらに約1万年で1回のペースで突然変異を起こすため,似ていながらも少しだけ違うDNAを比べることで,両者が今からどれくらい前に分かれたかがわかります。

 「物語」は,アルプス山中の氷河で発見された5000年前の遺体“アイスマン”からはじまります。アイスマンから抽出されたミトコンドリアDNAを手がかりに,彼の“子孫”を見つけ出そうとする作業が描かれます。その結果,著者の友人である女性が“親戚”であることが明らかになります。著者は,それを知ったときの彼女の気持ち−好奇の対象としてではなく“つながった者”としてアイスマンを見る気持ちに触れることで,この作品の主調低音ともなる「人々の繋がり」を描き出しています。
 この効果的な「つかみ」に続いて,DNAや遺伝学といった学問のアウトライン,歴史を述べていきます。さらにミトコンドリアDNAの特異な性質へと繋がっていきます。ここらへん,関心の温度差によって,やや退屈に感じられる方もおられると思いますが(「棒の皿」の比喩がよくわからなかったです^^;;),なるべき平易な言葉で学問を解説しようとする著者の姿勢が感じられますね。
 その上で著者は,ふたつのエピソードを紹介します。メイン・ディッシュ前の「前菜」といった雰囲気ですが,このセレクトがじつに巧いですね。ひとつは「ロシア帝国最後の皇帝一家の処刑をめぐる謎」です。アナスタシア皇女が生き残ったのではないか,というのは,歴史ミステリでは,しばしば取り上げられるモチーフですが,ミトコンドリアDNA分析の原理の説明を兼ねつつ,その真相へと迫っています。ここで印象に残ったのはつぎのような文言です。
「DNAは,神話を消滅させるほどの力がある−たとえそれがわれわれにとって,ぜひとも信じたい神話だったとしても」
 もうひとつは「南太平洋の島々にすむ人々の故郷はどこか?」というテーマです。ヘイエルダールコン・ティキ号による太平洋横断の冒険談は,子どもの頃にわくわくしながら読んだ記憶がありますが,そこで示された仮説=南アメリカ→南太平洋への移住が,やはり分析により否定されます。これを「科学によるロマンの否定」などと呼ぶべきではないでしょう。なぜなら,アジア地域からの「大航海」にしても,十二分にロマンをかきたてるものでしょうから。
 このふたつの比較的メジャーなネタを取り上げることで,ミトコンドリアDNA分析という,少々“浮世離れ”した科学技術に対する親近感を産み出すことに成功していると言えましょう。

 そして,いよいよ核心のテーマ「ヨーロッパ人の祖先は何者か?」へと移っていきます。このテーマはふたつに分かれていて,ひとつは「ネアンデルタール人とホモ・サピエンスとの関係」,もうひとつは「旧石器時代人と新石器時代人との関係」です。
 前者については,わたしも前から関心があったので,非常に興味深かったです。ネアンデルタール人というのは,ときには「野蛮で原始的な人類の祖先」というイメージが与えられたり,ときには「現代社会に紛れ込んでも,ぜんぜん遜色のない現代人類の一種族」という考えもあったりと,議論が分かれているところです。で,結論はというと,現代人類はネアンデルタール人の遺伝子を受け継いでいない,とのこと。両者は交雑不可能であった可能性が匂わされています(交配して子どもができても,ラバレオポンみたいに,次世代を作る生殖能力がない)。つまりこの地球上には,一時期,ふたつの異なる「種」の「人類(ホモ属)」が共存していたことになります。これって,SFなどではよく見られる,一惑星上での「異種族共存」が実際にあったわけで,想像力を刺激されますよね。
 後者は,ヨーロッパにおける農耕牧畜のはじまり=新石器時代のはじまりが,「情報の伝播」か「人間の置換」か,という議論。結論としては「情報の伝播」説,ヨーロッパ人の多くは旧石器時代人の遺伝子を受け継いでいるとしています。しばしば文化の違いは,その担い手自身(「人種」とか「民族」とか)の違いに置き換えられて説明されちゃいますが,それほど一筋縄ではいかない,というお話ですね。

 その上で著者は,ヨーロッパ人の「母」となった「7人のイブ」たちの生活を描いています。これはかなり想像力を交えた「物語」的なものではありますが,そこには著者の主張が出ているように思えます。つまり,彼女たち7人の「イヴ」の姿を,生き生きと描き出すことによって,「人種」という枠組みがきわめて危ういものであり,むしろミトコンドリアDNAの分析によって明らかにされた「個人と個人との繋がり」を重視すべきだという主張を,より鮮明に表わしているように思います。
 また彼女たちひとりひとりを個性豊かに設定していることは,家父長制の下,もっぱら父系のみを記録した「系図」では現れてこない女性たち,母系の確実な存在と重要性を示す意図があったのではないかと思います。

 いずれにしろ,科学素人にも楽しめる,出色の科学ノンフィクションではないでしょうか(付け加えれば,著者が発表したヨーロッパ人の祖先に関する仮説をめぐる反論についての記述もおもしろかったです。学理上の議論とともに,そこに「人間」の弱点や欠点などが紛れ込んでいるところなど,やっぱり「学者も人間なのだよ」といった感じです)。

02/08/16読了

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