ロバート・J・ソウヤー『イリーガル・エイリアン』ハヤカワ文庫 2002年

 「まちがった人間を罰することが許されないように,まちがったトソク族を罰することも許されません」(本書より)

 アルファケンタウリ星系から飛来したエイリアン・トソク族…彼らこそが,人類がはじめて接触した異星人だった。平和的かつ順調に進んでいたファースト・コンタクトは,しかし,トソク族の宿舎で,地球人の惨殺死体が発見されたことで急転する。容疑者としてエイリアンのひとりが逮捕されたのだ。そして前代未聞,人類史上初の裁判がはじまった…

 さてお話づくりの巧さにおいては定評のあるこの作者,今回もまた舌を巻くような奇抜な,そして魅力的な設定を提供してくれます。まずはエイリアントソク族とのファースト・コンタクト。その平和的なプロセスを,ユーモアを織り交ぜた文章でテンポよく描いていきます(スティーヴン・スティルバーグスティーヴン・J・グールドなんて固有名詞を出すところなど,思わず苦笑してしまいます)。また途中に皆既日食という天文ショーを挿入することで,地球が,まぎれもなく大宇宙に浮かぶ「惑星」なのだということを象徴的に示しているように思います(きちんと調べれば,この作品の舞台となった年代がわかるのでしょうね。やってませんが^^;;)
 しかし殺人事件の発生により,平和的なファースト・コンタクトは一転,エイリアンをめぐる裁判へと進展していきます。ここでなによりおもしろいのが,作者が「現代のアメリカにおける陪審員制度に則った裁判」に状況を固定している点にあるでしょう。検事側と弁護側の証拠の提出とその反証,証人への尋問と反対尋問などなど,被告や証人がエイリアンであろうと,あくまで裁判は現実のルールに沿って進行していきます。つまり設定こそSFですが,この作品は「法廷ミステリ」としての「顔」を色濃く持っています。さらにその過程で提出された証拠を元に推理を繰り広げていくところは,本格ミステリ的な「ノリ」があると言えましょう。とくに宇宙船の事故をめぐる推理とその真相は,新本格を彷彿とさせる大技で,楽しめます。
 また,その弱点を認めつつも,陪審員制度に対する信頼感は,主人公フランク・ノビリオに仮託された作者の「理想主義」の現れでもありますが,苛酷な現実に対しても希望と理想を捨てないというメッセージが込められているのではないでしょうか(そういった意味で,この作品はソウヤー版『12人の怒れる男たち』なのかもしれません)。

 しかし一方,「ルール」が現実的であるとはいえ,それを構成する「要素」は,いうまでもなくSFです。現在のあらゆる成文法は慣習法などに由来するといわれていますが,そこには人類独特の世界観や道徳観が反映されています。それゆえまったく異なる「文化」に属するエイリアンに,それを適用しようとすれば,当然,根元的な「ずれ」が生じてしまうわけで,作者は,それを丁寧に描き込んでいきます。
 トソク族の肉体的な異質性や世界観・倫理観…この作者のすごいところは,これらエイリアンの異質性を,人類の世界観・道徳観・科学などと照らし合わせて,SF的想像力(それも論理的な)で描くにとどまらず,それらが巧妙に組み合いながら,ミステリとしての作品の流れを作り出している点にありましょう(上に書いたグールドの講演会というのが,直接は言及されないにも関わらず,重要な「背景」になっているところは,いいですね)。
 それから,これはネタばれになるので詳しくは書けませんが,最後に明らかになる「真相」には,人類自身が抱え込む問題―イデオロギーとテクノロジー―とも響きあうものがあり,エイリアンの「異質さ」を超えた,より根元的なテーマへと結びついているように思います。つまりトソク族とは,現在の,そして未来の「人類」なのかもしれません。

 おそらくこの作者は,ミステリやサスペンスが,「お話づくり」において,もっとも有効なアイテムであることを十分に承知しているのでしょう。そしてそれを骨格としながら,そこにSF的な想像力を存分に注入しているわけです。いわばSF的想像力の「拡散性」と,ミステリ的想像力の「求心性」とを絶妙に配するバランス感覚こそが,この作者の力量の本質にあるのではないかと思います。

02/11/10読了

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