吉村昭『彦九郎山河』文春文庫 1998年

 幕藩体制の矛盾が噴出し始めた寛政の頃,尊皇の志篤く,幕府の武断政治を排し,朝廷による文治政治の復活を唱道して全国を旅する男がいた。上州浪人の儒者,名を高山彦九郎という。その深い学識,行動力,誠実な人柄から多くの友人,支援者を得るが,時いまだ至らず,幕府の監視がしだいに彼を追いつめていく・・・。

 この作者の,江戸時代を舞台にした作品,たとえば「My Favorite Novels」に挙げている『冬の鷹』をはじめ,『長英逃亡』『ふぉん・しいほるとの娘』などが好きです。これらの作品では,困難な時代や状況と格闘する人々の姿が,淡々とした,それでいて重厚な筆致で描き出されています。

 本作品の主人公・高山平九郎もまた,のちの明治維新につながる強烈な尊皇思想の持ち主ながら,時代の波に押しつぶされていきます。彼は,蒲生君平・林子平とともに「寛政の三奇人」と呼ばれ,作者が「あとがき」で書いていますように,エキセントリックな人物というイメージが強い人物です。しかしこの作品での平九郎は,誠実な,そして実践を重んじる行動的な儒学者として描かれます。むしろ,彼の思想的内容よりも,彼の全国を旅するという行動力,儒学者はもちろん豪商,刀鍛冶などとの広い交際関係を通じて,平九郎というキャラクタを浮き彫りにしているように思います。

 さらにこの作品では,平九郎という人物を通して,彼の生きる「時代」そのもの,その時代に生きる「群像」を描いているように思います。たとえば本書前半,蝦夷へ渡ろうと北へ飛び立つ平九郎の前に,「天明の大飢饉」の傷跡が深く残る東北地方の惨状が広がります。それは天災であるとともに,無能な藩政によって引き起こされ,深刻化した人災として描かれます。
 また反幕思想の持ち主である平九郎は,最後には幕府に追いつめられ自刃してしまいますが,それまでは各地で数多くの友人,支援者に助けられながら,北は青森から南は鹿児島まで旅をします。それは平九郎という個人的なキャラクタによるものもありましょうが,当時,全国の儒学者や国学者らのネットワークの形成や,彼らの間に形作られつつあった反幕的な意味での尊皇思想の広がりを表しているように思います。

 つまり平九郎というひとりの人物を追いながらも,彼というフィルタを通して描出される,激動の時代・幕末にいたる「地鳴り」が起こりつつある時代の姿こそが,本書の大きなテーマなのかもしれません。

98/10/18読了

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