皆川博子『薔薇の血を流して』徳間文庫 1986年

 3編を収録した短編集です。

 この作者の作品を最初に読んだのは,講談社文庫の『トマト・ゲーム』でした。その表題作を読んだときに感じたのは,生(性)と死とが交錯する際に生まれる,残酷なまでの「苛烈さ」,あるいは「苛烈さ」に対する渇望のようなものでした。この作家さんにとって初期作品とも言える本集収録の3編にも,同質の「苛烈さ(への渇望)」を,読みとれることができます。

 たとえば最初の「鳩の塔」は,IRAの爆弾テロが続発するアイルランドを舞台としながら,そこに男女の愛憎と確執,欲望を絡めながら,ひとりの日本人女性−上遠文月−の変貌を描いていきます。この作品でひとつポイントとなるのが,文月が寄宿するノーランド家の少女メイヴのキャラクタでしょう。三里塚闘争の渦中で脳を負傷した恋人を捨てたという過去を持つ文月にとって,メイヴのややエキセントリックながらも,IRAに入ったと噂される恋人ビルへの一途な想いを失わない彼女の姿は,文月の人生を大きく変えていきます。しかし「一途な想い」といっても,けっしてきれいごとで済むような「メロドラマ」ではなく,作者は物語にミステリ的な仕掛けを施すことで,メイヴの狂気にも近い「苛烈さ」を浮かび上がらせていきます。その苛烈さに触れることで文月は変わっていきます。だからこそ,ラストで描かれる彼女の行動は,より説得力を持つものになっているのでしょう。
 表題作「薔薇の血を流して」は,幼い頃,生き別れになったイギリス人の父親から,突然イギリスに呼び出されたはるなが主人公です。父親はマン島のバイク・レースに彼女を参加させるために呼び出したのです。バイク・レースという,十数分の一秒の判断ミス,操作ミスが,生と死とを分かつ「場」に,彼女の父親に対する愛情と憎悪というアンビヴァレンツな気持ちを織り込むことで,作者は,バイク・レースの「苛烈さ」と,彼女自身の「生」のそれとを重ね合わせ,増幅させています。彼女が,ひさしぶりに再会した黒江とのセックスのあと,彼の汗を拭うことをしなくなったというエピソードは,「苛烈さ」をその身で受け止めることによって,よりたくましく,自立していく姿を象徴的に示しているように思います。本編もミステリ的な部分が含まれていますが,それはさほど大きなウェイトを占めているとは言えません。
 最後の「モンマルトルの浮彫(レリーフ)」は,精神病院に入院していた患者が突然の自殺,その理由を医師が追うという,前2編とは若干テイストを異にした作品です。患者が死の直前に見ていた新聞記事と美術雑誌を手がかりに,医師は理由を突き止めますが,やはりそこで立ち現れてくるのは,芸術行為の持つ,狂気にも似た苛烈さです。みずからの名を売り出すため,高名な芸術家の男妾になることをいとわず,さらには,よりグロテスクな世界へと足を踏み込んでいく,ひとりの画家の狂気であり,それに巻き込まれ,翻弄されながらも,その中で生き,そして死んでいくひとりの女性の狂気です。もちろんそれを「狂気」と断じてしまうのは,あまりに容易いことですが,そこには芸術という精神的な「苛烈さ」に身を置く異人たちの鮮烈で,ある種の「輝き」を持った姿が浮き彫りにされているように思えます。

 革命にしても,バイク・レースにしても,芸術にしても,素材こそは異なりますが,わたしたちが日々送っている「日常」からは逸脱した「苛烈な世界」を描き出すことで,その中で生きるものたちの「生」の軌跡を切り取ってみせる,そんな作品集のように思えます。

02/10/11読了

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