植芝理一『夢使い』3巻 講談社 2002年

 学園長の真の目的は,“水蛭子(ヒルコ)”の復活,そして永遠の若さの獲得だった。学園の少女たちを媒介として,顕世に出現しようとする“水蛭子”。塔子・燐子・橘の3人の夢使いは,学園長の野望を阻止できるのか? そして“水蛭子”とはいったい何なのか? 異界を舞台に,夢使いのパワーが炸裂する!

 諸星大二郎のメジャーデビュー作にして,手塚治虫賞受賞作品「生物都市」は,「機械と人間の融合」を扱ったSF作品です。「機械と人間の融合」といえば,サイボーグに代表されるように,SFではけっして目新しいものではありません。しかし,この作品のユニークさは,素材ではなく,むしろその「絵柄」にあります。この作者の独特の描線で表わされた,その「融合」は,機械に人間が,まるでチーズが溶けるように取り込まれていくようで,きわめて「バイオニック(有機的)」です。その視覚的な新鮮さと不気味さが,最初に読んだとき,深く印象づけられました。

 さてこの『夢使い』には,さまざまな人間と異形との「融合」が描かれています。それは,ときに「メカニック」な印象を与えます。たとえば,少女の腕や脚が鋭い刃へと変形したり,あるいはまた身体の一部からロケット弾が発射されます。この巻で出てくる学園長がコントロールする,一種「ゴーレム」を思い起こさせるモンスタは,きわめてロボット的です。
 しかしその一方,その「融合」は「オーガニック」でもあります。少女の身体から繰り出される武器は,メカニック特有の直線はすこぶる少なく,曲線を多用したそのフォルムは,まるで昆虫の触角のようでもあり,また唾液を滴らせた動物の長い舌のようでもあります。触れると弾力を持っていそうな,そんな生々しさがあります。
 さらにもうひとつ,この作品の「融合」の特徴として,「デジタル」的な側面をも持っていることが挙げられるでしょう。それがとくによく現れているのが,夢使い3人組の必殺技“ドリーム・サイクロン”でしょう。携帯電話を通じてプログラムが送られてくるという設定もそうですし,それを元に“ドリーム・サイクロン”が再構成されていくプロセスは,まさにコンピュータのディスプレイ上で展開するCGアートを彷彿とさせます。
 「メカニック」「オーガニック」「デジタル」…これら多様な「融合」に,この作者特有のロリータ趣味と,強迫神経症的とも言えるようなトリヴィアルな書き込みが加わって描かれた少女の姿態は,正直なところ,「好きだ!」と大声で叫ぶと,周りから石を投げつけられそうなテイストがありますが(笑),すこぶる「異形的なエロティシズム」に満ちていることも否定できないでしょう。そこらへんが,この作品に対する,わたしのアンビヴァレンツな気持ち−この作品世界に入っちゃうとやばいなぁという気持ちと,どこかそのインモラルな異形さに惹かれる気持ち−を作り出しているのかもしれません。

 ところで,本巻で明らかにされた“水蛭子”の世界−「他者」の存在しない,すべての自我が一体化した世界(おそらく多くの方が『新世紀エヴァンゲリオン』を連想されたのではないでしょうか)。それは第2巻で描かれた,学園の少女たちを襲った「ナルシスの繭」に通じるものであり,ストーリィ的に整合性のあるものだと思いましたね。「他人のいない世界」というのは,いわば究極のナルシズムですものね。
 しかし本編では,その「水蛭子の世界」は拒絶されます。人間は違う互いに違う心を持っているからこそ“恋”ができ,“水蛭子”の幸福とは,人間が生まれる前,羊水の中で微睡んでいる“幸福”でしかないと,否定されます。ここにいたって,物語は,『ディスコミュニケーション』のメイン・モチーフ−「人はなぜ人を好きになるのでしょう」と響きあいます。「狐面を持つ少年」から「狐面を持つ少女」へと受け継がれたこの物語は,異なるアプローチながら,モチーフもまた受け継がれていると言えましょう。

02/09/05

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