山下和美『天才柳沢教授の生活』13巻 講談社 1999年

 さていまや「傑作集」まで出ているこのシリーズの第13巻です。

 この巻でまずおもしろかったのは,柳沢教授の孫娘華子の「恋」を描いた「第114話 あずきアイスの日」です。テレビ番組の悪役「カラス丸」が大好きな華子,ある日,教授の元へ,その「カラス丸」そっくりの学生が訪れたことから・・・というお話。この作品に華子が頻繁に出てくるのは,幼児特有のコミカルでほほえましいキャラクタが,いわば「使いやすい」というところもあるのでしょうが,ときとして「どきり」とするようなせつない―それも子どもであるがゆえによけいせつない―エピソードが描かれるときがあります。
 この話でも,テレビのキャラクタを投影しての「恋」という,一見子どもによくある内容ではありますが,相手の大学生―人間嫌いの木田クン―に恋人がいることを,華子が知るシーンが秀逸です。華子はヒロミツの背中で疲れて眠っています。そして彼女のモノローグ,
「大人の女のちとは,こういう時,どうちゅるんでしょう」
 ヒロミツの首に顔を埋める華子。家に帰ってきた彼女は,「具合が悪いのですか」と問いかける教授に言います。
「おなかの中にチョウチョウがいるみたいで何も食べられまちぇん」
「(熱は)ありまちぇんけど,そわそわちて,ぼ〜〜〜っとちて,ふわふわちて,何も出来まちぇん」

 ここいたって上に書いた「大人の女のちとは・・・」のセリフが,夢のつづきではなく,彼女がはじめて味わった失恋をかみしめているセリフであることに気づかされます。自分が大人でないがゆえに,子どもであるがゆえに,成就されることなかった恋にもかかわらず,彼女は「大人の失恋」と同じ哀しみを,空虚さを感じます。
「どうちてでちょう。華子は今生まれて一番悲しいでちゅ」
 少女は,いやさ,すべての子どもは,その中に「大人」を抱え込んでいるのかもしれません。子どもが子どもであるというのは,じつは大人の幻想なのかもしれません。「たわいもない」という言葉で一括りされてしまうものの中にも,大人と同質の哀しみや喜びが隠されているのでしょう。
 それにしても教授の「おしるこを2杯も食べた」経験というのは,ちょっと気になりますね。

 もうひとつのお気に入りは「第116話 タマごめん」です。冬になって持病のナミダ目と鼻炎が再発したタマ,教授と華子はタマに目薬をさそうとするのですが・・・というエピソード。そういえば,タマが初登場したときは,目やにがバリバリに着いて,鼻水を垂らした小汚い捨て猫だったんですよね。それが柳沢家で飼われているうちに,なんとも愛嬌のある(=教授の好奇心をそそる)存在になってきたんでしたね。で,そのタマに目薬をさそうと,教授は教授なりに,華子は華子なりに苦労(?)するのですが,この話,最後になってじつは,お母さんのお話であったことがわかります。教授の「お母さん まいりました」の一言,嬉しそうに,ちょっと自慢げに微笑むお母さんの姿を描いたラスト・シーンが,ほのぼのしていていいですね。

 で,この巻の名セリフ。
「子供にしかわからない悲しみがあるように,大人にも大人しかわからない深い悲しみが存在するのです。そして,悲しみが深い分,喜びもまた深く大きい」
(もういい加減,「若さ」に媚びを売るようなマーケティングはやめにしましょうよ)

98/04/17

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