山下和美『天才柳沢教授の生活』11巻 1997年

 この作品は,新刊が出るのが楽しみなシリーズですが,今回はとくに楽しめた作品が多かったですね。
 柳沢教授は,人間のことが知りたくて知りたくて,経済学を研究している教授ですが,そんな鋭く,そして優しい人間観察の眼は,多くの人々の隠れた美点や長所をすくいあげていきます。
 たとえば「第102話 ソネット83番」では,質問されても答えられず,他の教授からはぼろくそ言われている学生が,じつは理解の速度は遅くとも,着実に真摯に問題を解いていく“研究者の資質”を持っていることを,柳沢教授は発見します。もっともそのことは,その学生の主任教授である剣持教授がすでにいち早く見いだしていました。「お前は研究者にとってなにより大切な資質を一つだけ持っている。それは自分が心底納得するまでは決して次には進まないことだって」と。要領のよさ,効率性,スピーディさが求められる現代社会の中でおろそかにされてしまいがちな部分を,やわらかに描き出しているように思います。
 このことは,柳沢教授の目を通してだけではなく,作品全体を通じても言えることで,たとえば「第105話 遠きロマンス」では,厳格で口うるさいオールドミス(死語)の図書館司書・井田女史が持つ,ロマンスにあこがれるナイーブな心を,ユーモラスに描き出していますし,「第99話 あなたをしりたい」では,世津子の友人で,「聞き上手」大桃さんの心の奥底に秘められた気持ちを,やさしいタッチで描いています。

 この巻での一番のお気に入りは,「第100話 オーロラ姫の眠り」です。日曜日,柳沢教授の元に遊びに来た孫の華子ちゃんは,ぐずったすえに,おじいちゃんに連れられ,お葬式に出席します。そこで彼女ははじめて「人の死」に立ち会います。亡くなったのは,教授の恩師・森田教授の奥さん。彼女はかつてオーロラ姫を踊ったバレリーナです。オーロラ姫に憧れる華子は,姫が王子様のキスでふたたび目覚めると信じています。しかし,現実のオーロラ姫はふたたび目覚めることはありません。そんな“現実”に直面した華子の様子を,森田教授と奥さんとの心の交流とともに,淡々と描いていきます。
 人が必ず死ぬということ,それまで動き話していた人間が,二度と動かず,話さないようになるということ,そしてどんなに親しい人ともいつかは死によって別れねばならないということ,それは子どもにとって,計り知れないほどの不安と恐怖をともなうものでしょう(大人にとっても似たようなものですが)。しかしいつかは眼にし,直面しなければならないことです。この作品のいいところは,そんな華子にとっての“はじめての死の体験”に,安直な結論を下すことなく,急ぐことなく,「華子がもう少し大きくなったらそのことについて考えましょう。その時は私も一緒に考えます」という教授のセリフで締めくくられることです。ここにも,柳沢教授の(ひいては作者の)やさしい視点が表れているように思います。
 この作品のユーモアに溢れた優しい世界は,なんとも言えずいいですね,やっぱり。

98/01/04

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