伊藤潤二『闇の声』朝日ソノラマ 2003年

 『ネムキ』掲載の7編を収録した短編集です。

 本集を読んで,「あれ,この作者,少し変わった?」あるいは「変わりはじめた?」と思ったのは,わたしだけでしょうか? というのも,これまでまったく無かったというわけではないものの,あまり表面に出ることのなかったトーンが,本集の作品のいくつかに見られることです。そのトーンとは「哀愁」とでも呼ぶべきものでしょうか。
 たとえば「第3話 轟音」は,山中で30年前に起きた災害の「幻影」を見るという,この作者ならでは奇想にもとづくエピソードですが,ラストにおいて,その災害を生き延びた老人が,死んだ妻を「助ける」ために,幻影の洪水に飲み込まれていくところや,主人公の青年と,老人,そして災害との関わりを匂わせるエンディングなど,しっとりとした余韻を残す作品となっています。
 また「第6話 自縛者」は,ある日突然,生きた人間が何日も何日も,同じ場所で同じポーズをとり続ける「奇病」が蔓延するといった,やはりこの作者お得意の「不条理系ホラー」的オープニングです。主人公の少女の目を通して,「なぜ人はひとつの場所に自縛されるのか?」というミステリが提示され,その「真相」解明に巧みにツイストがかけられるとともに(このへんの描写は秀逸),主人公の暗い過去と結びついて,ビターでやるせないラストへと展開していきます。
 そして「第7話 死刑囚の呼鈴」。家族を暴走族によって惨殺された兄妹,彼らの元に,毎夜,死刑判決を受けた犯人の生き霊が訪れるという内容です。「許しを乞う」と言いながらも,結果的には兄妹を狂気の淵へと追いやる生き霊の不気味さがメインに描かれたエピソードですが,驚いたの幕の引き方。以前のこの作者の傾向からすれば,絶望的なまでに不条理な結末を予想させるのですが,本編では,むしろ「肩すかし」とさえ呼べそうなエンディング。しかし,ラスト・カットを絶妙のアングルで描き出すことで,どこか「奇妙な味」を交えた静謐な雰囲気を醸し出していますす。
 これまで,圧倒的なまでの迫力をたたえた独特の絵柄でもって,さまざまな狂気や怪異,不条理を描いてきた作者ですが,ここへ来て,それら狂気・怪異・不条理の背後にある哀しみややりきれなさといった部分を,的確に描き込んでいくように変化してきたのかもしれません。そんなことを思わせる作品集です。

 ですが,その一方で,従来の「伊藤ワールド」もまた健在です。摂食障害に陥った少女が経験する怪異を描いた「第1話 血をすする闇」では,吸血コウモリが「血を運ぶ」という奇想と,血の雨の中を走る主人公を1ページ大で描いたラスト・シーンのシュールさが光っています。また「第2話 ゴールデンタイムの幽霊」は,一種の超能力で,客を無理矢理笑わせるという奇怪な漫才師が登場する,「お笑い」と「ホラー」というミス・マッチが楽しい作品です。「第4話 お化け屋敷の謎」は,「恐怖の双一シリーズ」に通じる,奇妙なブラック・ユーモアと,視覚的なインパクトを持ったグロテスクさが同居したエピソードとなっています。
 そして極めつけは,生理的な嫌悪感・不快感を前面に押し出した「第5話 グリセリド−あぶら−」でしょう。とくに兄の顔から噴き出る「脂」のシーンは,思わず本を持つ手を離したくなるような気色の悪さです。おそらく『ネムキ』の読者層で多くを占めるであろう若い方々−つまりニキビに敏感で,より潔癖な若い方々にとっては,わたしのようなおじさんよりも,もっと切実で,ある意味「怖い」作品と言えるかもしれません。不条理なストーリィと,絵柄によるショッキング性といった点で,この作者の作風が顕著に現れているエピソードでしょう。

03/09/27

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