山下和美『山下和美短編集』講談社 2002年

 近年,少女マンガ誌,少年マンガ誌,青年マンガ誌の「垣根」を飛び越えて作品を描かれる作家さんが多くなりました。とくに少女マンガ誌出身者の少年・青年マンガ誌での活躍が目につくように思います。その際に,少女マンガ誌での作品と少年・青年誌のそれとを意識的に「テイスト」を変える作家さん(たとえば楠桂)もいる一方,両者にさほど違いが見られない作家さんもおられます。
 この山下和美もそのひとりで,中短編5編を収録した本作品集を読むと,そのことを実感します。巻末の作者の言葉を見ると,『モーニング』に発表された1編−「ROCKS」以外の掲載誌は,すべて女性マンガ誌です。読み終わって,そういった書誌情報に接すると,たしかに主人公設定などに若干の違いに気づくとはいえ,読んでいる途中にはいっさいそのようなことは思いつきませんでした。つまりすべて青年誌に発表されていたとしても,けっして違和感を感じることはなかったように思います。
 少年・青年マンガ誌に,少女マンガ誌出身作家を採用することは,すでに「試み」の段階を脱しているのでしょう(<時代認識が古い?^^;;)。

「ガラクタ星人宙(そら)を駈ける」
 新進気鋭の建築士・工藤は,古い自宅を壊してビルを建てることを計画するが…
 長いこと使っているモノには神が宿る−「付喪神」という信仰を,昔の日本人は持っていました。「モノ」とは,その実利性や機能性以外にも,人のさまざまな想い,そのモノを使っていたときの気持ち−楽しい気持ち,優しい気持ち,悲しい気持ち,辛い気持ちなどなど−が投影されているのかもしれません。そう考えると付喪神という考えも,どこか納得できるところがあります。主人公の工藤が見いだしたのは,哀しく辛い気持ちしかないと思っていた「モノ」に,別の感情もまた込められていたことなのでしょう。
「ROCKS」
 リストラされた垂水は,かつてのバンド仲間が,いまでも活動を続けていることを知り…
 小学生の頃,両親の若い頃,結婚前の写真を見たとき,なんとも「落ち着きの悪い気持ち」を味わったのを覚えています。わたしがいない,いや,おそらくわたしが生まれることさえも考えていなかった頃の「両親」−それは「親」ではない,ひとりの男とひとりの女です。しばらくしてから,もし親子関係でなく,彼らと出会っていたら,自分はどう感じるだろうか? ふとそんなことも思ったことも思い出しました。もしかすると「若い頃の両親」というのは,永遠に未知な存在なのかもしれません。
「ブルー・スパイス」
 帰宅した章子を待っていたのは,別れた恋人と結婚した女だった…
 辛い出来事を「物語」にしたい気持ちは,誰にでもあるのではないでしょうか。たとえば「失恋」。その理由が自分にあるより,「ほかの女(男)に横取りされた」という「物語」の方が,はるかに心地よいものでしょう。しかし,その「物語」が現実と違えば違うほど,どこかに「ずれ」が生じてしまいます。「物語」にフィットするように「現実」を変えるか? 「物語」を解体して「現実」を見るか? 素材的にはやや陳腐ながら,「物語」を打ち破って生きていこうとする主人公の姿がすがすがしいです。
「プライベート・ガーデン」
 “幻の女優”の住む家に忍び込んだ青年は,そこでひとりの若い女性と出会う
 幻想的なアイテムはいっさい登場しないのに,幻想的な雰囲気に横溢した作品です。“幻の女優”の娘との奇妙な同居生活,温室でのセックス,庭に埋められた遺体,“プライベート・ガーデン”を守り続ける男…作中のセリフにも出てくるように,法律や世間体よりも「美意識」をかたくなに守るところは,どこかヨーロッパの映画でも見ているような,そんな気分にさせられます。本集中,一番楽しめました。
「昨日の君は別の君 明日の私は別の私」
 平和で退屈な日常を送る主婦・明子。彼女の持つパソコンに,突然,“もうひとりの自分”が現れ…
 「もしあのとき,こうしていたら(こうしていなかったら)別の人生になっていたかもしれない」という設定の物語は,けっして起こることがないがゆえに,おそらくフィクションの中では繰り返し繰り返し描かれることになるのでしょう。この作品のユニークな点は,そんな「あったかもしれない人生」が,じつは,結婚に反対した義父の心の中で作られたものであることにあるでしょう。「あったかもしれない人生」は,結局フィクションでしかなかったという,どこか醒めた視線を感じます。また,主人公が「シークレットな私だけの世界」を残すエンディングは,すごく意外で新鮮に感じるとともに,ヒッチコックの映画『裏窓』のラスト・シーンを連想しました。

02/05/29

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