伊藤潤二『トンネル奇譚』朝日ソノラマ 1997年

 5編をおさめた作品集です。この作者特有の陰影の多いリアルなタッチの絵柄は,相変わらず健在ですが,それとともに,この作品集の作品は,いずれも奇想たっぷりの物語で楽しめます。

「長い夢」
 その入院患者は“長い夢”を見るという。最初は2〜3日,しだいに1年,10年の長い長い夢を見るようになり,眠っている間に肉体も変容していく。そして“永遠”の夢を見たとき,彼は…
 いま,わたしたちが見,触り,経験している“世界”は,“現実”なのか“夢”なのか,という設定は,古来より数多くの物語で取り上げられています。『邯鄲の夢』なんてのはそのもっともオーソドックスなもので,夢の中での時間の流れというのは,現実のそれとは異なる原理で動いているのかもしれません。
 その夢の長さが人の一生程度のものであったならまだしも,数千年とか,永遠とかの時間が経過する夢であったら,人はどうなるのでしょうか? 夢の中の数千年と,現実の1日とは,本人にとってどちらがよりリアルなものなのでしょうか? もし夢の中で永遠に生きられるならば,現実の数十年の生など,いかほどの意味を持ちえるのでしょうか? 
 夢の中で数千年を生きている男が,不気味な姿に変容していくところは,いかにもこの作者らしいタッチですが,発想そのものが楽しめました。本作品集で一番のお気に入りです。
「トンネル奇譚」
 地元で「魔の山」と畏れられていた山を刳り貫いて造られたトンネル。そこでは事故が多発し,奇怪な噂が絶えない。閉鎖されたはずのトンネルで,またひとり,またひとりと人が行方不明になり…
 トンネルというのも,多くのホラー作家のイマジネーションを刺激するアイテムなのでしょう。常識では,トンネルには「入口」と「出口」があるとわかっていても,「はたしてこのトンネルにはちゃんと『出口』があるのだろうか」「もしかすると,このトンネルから2度と出られないかもしれないでは」という,一瞬のいわれなき“恐れ”があるからでしょう。この作品も入ったら2度と抜け出せないトンネルを扱った作品です。人間が,トンネルの壁に吸い込まれていくシーンがなんとも不気味です。
「銅像」
 公園にたつ前市長とその妻の銅像。子どもたちの間では,その銅像がしゃべるという噂が流れており…
 臘で原型をつくり,それを石膏の中に埋め込んで焼く,臘が溶けて,石膏の中にできた空洞に銅を流し込んで銅像を造るという技術を巧みに使ったホラーです。それにしても人間の死臘を使って銅像を造るという発想が凄いです。途中のエピソードがちょっと冗長かなというところもありますが,アイロニカルなエンディングがいいです。
「浮遊物」
 亮一は,ある日,奇妙な黒い毛玉を見つける。刺激するとしゃべりだす毛玉から聞こえる声は,友人の雅雄のものだった…
 心の中に深くしまってあるはずの本音が,本人の知らないうちに漏れだしてしまう,という話もよく見られるパターンですね。しかしこういった話が多く語られるということは,それだけわたしたちの日常生活が本音ではなく,建前で成り立っているということなのでしょう(だからサラリーマンは居酒屋で毎晩くだをまくのです(笑))。もし人間の本音があますところなく公表されたら,社会はパニックに陥るでしょうし,本作品の“和也”のように,それを利用して儲けようと人間も出てくるでしょう。その本音を語るのが,不気味な黒い毛玉であるところが秀逸です。ラストはちょっと救われます。
「白砂村血譚」
 無医村の白砂村に赴任した医師・古畑は,そこで全身から血が吹き出すという奇病に遭遇する…
 村の地中に張り巡らされた血管というイメージがおぞましいです。村と村人との奇妙な共生関係。いや,この村人は本当に生きているのでしょうか? それとも村によって生かされているのでしょうか? ありえない非現実的な話ながら,どこか寓話めいた雰囲気があります。

98/03/01

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