竹宮恵子『地球(テラ)へ・・・』全3巻 中公文庫 1995年

 いまさら言うまでもなく,この作者の代表作のひとつであり,日本のSFマンガを語るときには,必ずといっていいほど言及される作品です。ですから,あらためてわたしがなにかを付け加えることはないのですが,10数年ぶりに読み返してみて,思ったことを書いてみたいと思います。

 まず感じたのは,多少,語弊があるかもしれませんが,少女マンガと少年マンガとの幸福な融合,ということです。この作品は4部構成よりなります。第1部は,本編の主人公ジョニー・マーキス・シンが,ソルジャー・ブルーの遺志を継いで,ミュウたちの長になるまでが描かれます。第2部は,もうひとりの主人公キース・アニアンがメインとなり,とくに“反逆児”セキ・レイ・シロエとの葛藤を通じて,彼自身のレゾン・デテールが描き出されています。この1・2部で描かれる,ソルジャー・ブルーの深い「地球(テラ)」への想い,「目覚めの日」のシンの戸惑いと不安,シロエの痛々しいまでの矜持,キースの孤独などといった少年たちの葛藤,苦悩,そして哀しみは,それまでの「スペース・オペラ」的な少年マンガでは,ほとんど取り上げられることのなかったナイーヴさではないかと思います。
 一方,第3部はシンとキースとのファースト・コンタクト―それは戦いという形を取ります―,ミュウたちの安息の地惑星ナスカの崩壊が描かれます。そして第4部,シンに率いられたミュウたちは,地球(テラ)を目指します。地球の生命管理システムを破壊しようとします。宇宙空間で繰り広げられる戦闘,トォニィのキース暗殺未遂,クライマックスでのグランド・マザー・コンピュータとシンとの壮絶なバトル。このような骨太でハードなストーリィ展開は,逆に,(少なくともこのマンガが連載された1970年代の)少女マンガではめずらしかったのではないでしょうか。
 絵柄的にも,ひおあきらの作画協力を得て,少女マンガと少年マンガとを混在させた感がありますが,それ以上にストーリィ的な両者の融合巧みなものと言えましょう。

 もうひとつ,今回の再読で感じたことは,この作品の魅力が,テーマの普遍性にあるのではないかということです。この作品で描かれるミュウと人間との戦い―より正確にはミュウとコンピュータとの戦い―には,「正統と異端」「マジョリティとマイノリティ」「個人とシステム」「支配(管理)と抵抗」といった,より一般的なテーマを内包しているように思います。
 人間の中から生まれたミュウ―彼らはマイノリティであるがゆえにシステムから迫害され,排除された存在です。それゆえにこの物語は,マイノリティによる権利獲得闘争・解放闘争とも言えます。そして,その闘争の過程で生じるミュウ内部での確執―老人たちと若者たち,穏健派の台頭,トォミィたち“新ミュウ”の複雑な立場―が,物語にさらなる深みを与えています。またシンやソルジャー・ブルーが少年の姿をとることに,ジェネレーション間の齟齬や対立―大人に抑圧される子どもたち―を見出すことも可能かもしれません(このことは,シロエのキースに対する問い「じゃ,あなたもやっぱり“成長は過去を捨て去ること”,そう思いますか?」と響き合います)。
 あるいはまた,コンピュータによる人間(生命)の徹底的な管理体制,それが産みだした無気力な人間たち―コンピュータに依存し,意思決定を放棄した人間たちの姿には,“グランド・マザー”のようなスーパー・コンピュータこそないものの,個人を,その生活の細部においてまで管理しようとする政治的意思や,権力や権威に依存することで,みずからの行動に対する責任を放棄しがちな,現代のわたしたちの姿が二重写しになっているように思います。
 だからこそ,ラストでのキースの行動―“コンピュータ「地球(テラ)」”を停止させる彼の行動は,なにものかに子どものごとく依存することなく,人間として自立して生きようとすることを決意した行動として,より普遍的な共感を呼ぶことになるのでしょう。

 ところで,作者も第1巻の「あとがき」で書いてますが,けっこう短い作品だったんですね。記憶の中ではもっと長大な物語というイメージがあったのですが・・・それだけコンパクトで濃密な作品なのでしょう。

98/05/18

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