佐藤史生『天界の城』ハヤカワ文庫 2001年

 「世界はすでに我々の手にあまるのだ」(本書「阿呆船」より)

 この作家さんの作品は,もう20年くらい前に何作か読んだ記憶がありますが,今回,文庫化されたのと,掲示板にて綏子yasukoさんからのご紹介をいただいて読んでみました。

 5編を収録したSF短編集です。コンピュータ・ネットワークが張り巡らされ,異星に人類が植民し,人工生命やクローンが手軽に産み出される・・・たしかに舞台設定も小道具もすべて「SF」です。しかしこの手触りの奇妙さはいったいなにに由来するのでしょう?
 ひとつには神話や伝説といった「過去」が「未来」の中に大胆に挿入されていることでしょう。たとえば「阿呆船」では,400年前に旅立った「移民船」の帰還に端を発して,主人公の−そして彼を生み出した周囲の人間たちの−恐るべき正体が明らかにされます。さらにそれは,15世紀の詩に出てくる「阿呆船」とオーヴァ・ラップされます。秩序を維持するために社会的不適格者を排除し,追放する「阿呆船」・・・「過去」の悪夢が「未来」において実現すること・・・それは人間が変わらないこと,変われないことを暗示しているように思えます。さらに本編は,「阿呆船」の地球への帰還,「聖なる阿呆」「賢明なる愚者」に導かれた「混沌」の帰還によって幕を閉じます。異端や狂気を「外側」に追放することで成り立っていた「秩序」は,それら回帰によってふたたび混沌へと飲み込まれ,新たな「秩序」が生み出される・・・すぐれて「神話的」と言っていいエンディングです。SFとして「未来」を語りながら,同時に「神話的過去」をも描き出す,その二重性が本編に独特の味わいを持たせているのではないでしょうか?
 同様のことは,「馬祀祭」「天界の城」にも言えます。「馬祀祭」の舞台となる社会では,退屈しきった状況を活性化させるために,意図的に「王制」という「過去」が導入され,そのために「馬祀祭」という,それこそ古代社会に見られるような大がかりな祭祀が執り行われます。またその続編である「天界の城」では,一方でさまざまなSF的科学が用いられながらも,独裁的な「王」が破滅していく様は,さながら宮廷劇のような趣を持っています。ここでも「SF的未来」と「過去」との奇怪なアマルガムが描き出されることで,人間の欲望や焦慮,愛憎といった人間の根元的な姿がクローズ・アップされています。あるいはまた,いかに科学技術が進歩しようとも,人間は「祭祀」や「神話」,「物語」を必要不可欠であることをも表しているのかもしれません。
 さてもうひとつ,本集に納められた作品にしばしば重要なアイテムとして登場するのが「病気」です。「阿呆船」では,「ネハン病」が物語の「核」となっていますし,また「羅陵王」でも,「翠妖=羅陵王」という伝説に仮託された致死性の高い伝染病が登場します。また「天界の城」のエラス一族は,遺伝子的欠陥を抱え込んでいます。
 これらさまざまな「病気」によって象徴されているもの−それは「肉体」ではないでしょうか? 人は「肉体」という桎梏から自由にはなれないことの象徴ではないでしょうか? それは,多様なスーパーサイエンスに囲まれながらも,人の「心」が「物語=祭祀=神話」を求めざるを得ないことと対になっているのではないでしょうか?
 そういった意味で,本書ラストに収録された中編「やどり木」のモチーフは意味深長です。どこかギムナジウムを舞台にした青春マンガのテイストを漂わせる本編では,トライン蔓から抽出されるミスルト・スパイスによって「宿脳」を得,通常とは異なる“ヴィジョン”を獲得する少年たちの姿が描かれます。つまり人の肉体を改造することで,異なる「心」をも獲得するわけです。人が人であるがゆえに逃れられないもの−「物語」を求める「心」と「病気」を抱えた「肉体」。上の作品で繰り返し語られてきた,このふたつのモチーフが,この作品においてSF的に解消されているように思います。

01/06/03

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