曽田正人『昴 スバル』6・7巻 小学館 2001年

 ローザンヌ・バレエ・コンクールで優勝し,イギリスの名門ロイヤル・バレエ・スクールから入学を招待されるも,それを断り,単身ニューヨークへと渡ったスバル。しかし彼女が所属するシステロン・バレエ・カンパニーは,公演の予定さえない弱小バレエ団。みずからの選択を悔やむスバルに,座長ザックが持ってきたのは,刑務所での慰問公演だった。バレエの「バ」の字も知らない囚人たちを前にして踊るスバルは・・・

 さて「ニューヨーク編」です。新天地で,スバルの活躍は如何? と期待したのですが,じつは6巻を読んだ時点では,いまひとつ,といった感じだったのですよね。スバルが入団したバレエ団は,公演予定さえない三流団体。その中でストレスを感じるスバルですが,しだいに周囲の理解を獲得しながら,だんだんステップを登っていく……このパターンは一昔の「スポ根もの」でお馴染みではないか,と感じたからです。
 ほら,よくあったでしょ,剛腕のピッチャーが名門高校の誘いを断って,弱小野球部に入部,やる気のない部員を引っぱって,ついには甲子園出場!というパターン(あ,いまでもありましたね,『少年サンデー』『MAJOR』とか……^^;;)。刑務所でのヴォランティア公演というのも,そのための常套的な試練のひとつといったところです。7巻に入ってからも,群舞に助けられながら,スバルがバレエ団の一員であることを自覚していくところは,打ち込まれたピッチャーがナインの守備に助けられる,というのに似ています。ですからストーリィ展開としては陳腐な感が免れなかったですよね。

 しかし7巻中盤,刑務所でのヴォランティア公演クライマクス・シーンにおいて,物語はその「陳腐さ」を撃ち破ります。もし上に書いたようなオーソドクスな展開が続けば,「バレエのことをなにも知らない囚人たちにも,バレエを楽しんでもらいました。めでたし,めでたし」といった結末なのでしょうが,作者はそうはしません。
 バレエを楽しんでいた囚人たちは,徐々にスバルの踊りの中に「自由の輝き」を見出します。それに気づいたとき,彼らはみずからの不自由さ,失ったものを見つめざるを得なくなります。
「オメーらさえ来なけりゃ,俺達ぁ何も考えねーで,ここでそれなりの毎日を過ごせてたんだ」
「こんなの観せられて,明日から,どうやって過ごしゃいいんだよ。鉄格子の中で!!!」

 さらに暴動を起こした囚人たちを,スバルはその踊りによって「鎮圧」してしまいます。暴動におびえることさえせず「自由に」「気持ちよく」踊り続けるスバルを前にして,囚人たちは慟哭しながらうちひしがれます(その囚人たちの姿は,のちに「拷問を受けて泣きわめくような」と評されます)。
 作者はスバルの,バレエの,いやさ「芸術表現」が持つ「魔性」を,このようなショッキングなエピソードによってあますことなく描きだしているといえましょう。しばしば芸術は「人間を感動させるもの」と言われます。しかし「感動」は,人間の心的状態のひとつでしかありません。人間の心にはプラス面もあればマイナス面もあります。「光」もあれば「闇」もあります。芸術とは,いやもっと広く言えば「表現」とは,そんな「プラス面」「光」だけを引き出すものではないのでしょう。正も負も,清も濁も併せ持った人間に秘められた情動を,情念を導き出す触媒としての「芸術」……作者はスバルをいったいどこに導こうとしているのか? そのへんがじつに気になります。

 さて7巻終盤,新キャラが登場します。名門ニューヨーク・シティ・バレエのプリンシパルプリシラ・ロバーツです。実力,名声ともにトップクラスの彼女は,「拷問を受けたように」泣き叫ぶ囚人たちの写真を見て,スバルに関心を持ちます。彼女との出会いによってスバルの運命がどのように変転するのか,楽しみです。
 ところでこの彼女のセリフ,
「ごまかすなプリシラ……このモヤモヤの正体……本当はわかっている。意味があろうがなかろうが,そんなことはどうでもいい。この地上のどこかで,私にできないことをやっている者がいるっていうことよ……!!」
は,じつにいいですね。このストレートさが芸術家には必要なのかもしれません。

01/12/18

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