曽田正人『昴 スバル』3巻 小学館 2000年

 「バレエはほとんど楽しくない。でも,楽しいとか楽しくないのむこう・・・1pとか1oの,逃げ出したくなるような針の穴のむこうに・・・何かがあるの。死んじゃうくらい気持ちいいことが・・・」(本書より)

 ローザンヌ国際バレエ・コンクールで賞を取れば,踊りつづけることができる・・・それを聞いたすばるは,新たな目標へと歩き始める。しかし,その一方で,あまりに急速に「進化」する彼女の踊りは,なにかを失いはじめる。そんなとき彼女は,ストリート・ダンサーたちと出会い・・・

 こんなことを書くと,多くの方(とくに若い方)の反感を買ってしまうかもしれませんが,わたしは,「情熱さえあれば」とか「熱意さえあれば」とかいった言葉には,どうも胡散臭いものを感じてしまいます。たしかに「情熱」や「熱意」が,行動を起こすための重要なきっかけになることを否定するつもりはありませんが,ただやみくもに,それ「のみ」を押し進めることに対して,「ちょっと,待てよ」と言いたくなるのです。
 なぜなら,その「情熱」や「熱意」を,現実化するためには,さまざまな「技術」が必要だからです。自分の想いを伝えるためには,表現するための技術が必要ですし,さらにその表現を他者に伝えるためには,それ以上のテクニックが必要です。そしてその技術を習得するためには,長い時間と労力がともなうことは言うまでもありません。
 もちろん,そんな技術の習得を支えるために「情熱」や「熱意」が必要ではあるのでしょうが,しかしその一方で,技術の習得に必要な長い時間と労力は,ときに「情熱」や「熱意」を磨り減らし,その技術習得を目指した最初の理由を,どこか遠くの方に置き忘れてしまうという結果を招き寄せることがあります。いわば,ただただ,より高度な技術,難度の高い技術を求めるという,手段としての技術が自己目的化する危険性をつねに孕んでいます。
 つまり,そんな摩耗に耐えるだけの「硬さ」を持った「情熱」や「熱意」こそが必要なのであって,それを常時キープするためには,並々ならない努力もまた必要なのでしょう。ですから,安易な「情熱さえ,熱意さえ」という言葉には,拭いきれない違和感を感じてしまうのです。
 結局のところ,陳腐な比喩で,なんとも情けないのですが,「情熱」「熱意」と「技術」とは両輪のようなもので,「こと」を押し進め,「より遠いところ」へ行こうとするためには,両方のバランスが必要なのでしょう。片輪ばかりが肥大していては,同じところを,ぐるぐると空回りするだけの結果になってしまいます。

 本巻の主人公すばるには,そんな「情熱」と「技術」との間を,まるで振り子のように行き来する姿が見られます。自分の踊りが,子どもを泣かせてしまったことに傷ついた彼女は,ヒップ・ホップを踊るストリート・ダンサーたちと出会うことで,踊ることの楽しさ,心地よさを再認識します。それこそが彼女が踊ることの「核心」であり,それを取り戻すことで,そしてそこからあえて離れることで,ふたたびバレエへと戻っていきます。冒頭に掲げたすばるのセリフは,そんな彼女の「帰還」の決意を十二分に表現していると言えましょう。
 しかし,彼女を待っていたのは,おばちゃんから紹介されたワーニャの厳しいレッスンです。このロシア人の正体はまだ明かされませんが,彼は言います。
「神が降りてくる瞬間は,ルーレットで当てるのとは違う! 自分で“創る”のです」
「世界のトップは,最高のパフォーマンスに“再現性”をもっている」

 自分の肉体,筋肉の動きを隅々まで理解し,コントロールし,踊りの「精度」を極点まで押し上げる「技術」を,すばるに徹底的なまでに教え込もうとする姿勢が,ワーニャのセリフから感じ取れます。「情熱」を取り戻した彼女の,その「情熱」を具体化する「技術」を獲得するための苦闘がはじまります。
 そのふたつの間のせめぎ合いを,作者はこれからどのように描いていくのか,楽しみです。

00/12/15

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