池上遼一『スパイダーマン』1・2巻 MF文庫 2002年

 「世間から賞賛されるヒーローなんてもうまっぴらだ! 善人ヒーローなんてくそくらえだ〜っ」(本書 小森ユウのセリフ)

 ガリ勉の高校生・小森ユウは,放射能をあびた蜘蛛に刺されたことから,不思議な“力”を身につけてしまう…蜘蛛のように壁を歩き,並はずれた跳躍力,鉄骨をも一殴りで曲げてしまうパワーを持った“スパイダーマン”。しかし,ユウはその超能力を使って戦う相手は完全な悪人でないのが常だった。ユウはみずからの“正義”に対する不信と孤独に悩まされる…

 故藤子・F・不二雄の作品に「ウルトラ・スーパー・デラックスマン」という短編があります。俗っぽくて,自分勝手な“正義”を振り回す超人を主人公とした本編は,「超人的な力」がアプリオリに「正義」や「悪」に結びつくことが前提となる,いわゆる「ヒーローもの」に対するブラックでアイロニカルなパロディとなっています。この池上遼一版『スパイダーマン』は,そのシリアス・ヴァージョンとも言えましょう。

 主人公小森ユウは,ふとした偶然から超人的な力を手に入れ,スパイダーマンとなります(普通の高校に「放射能制御装置」があるという設定には少々唖然としてしまいますが^^;;)。その「力」に戸惑う彼の前に,銀行を次々と襲う怪人エレクトロが登場,ユウはエレクトロを倒そうとします。しかしその動機は,「正義」のためではなく,ガールフレンドルミの母親の手術代用に,エレクトロにかかった賞金1000万円を手に入れるためです。しかしその結果,エレクトロ=ルミの兄を殺すことになり,ユウは,自分の超人的な力に対して恐怖と嫌悪を覚えます。また「犬丸博士の変貌」では,復讐のためにトカゲ男と化した犬丸博士−同時に彼はユウの知り合いでもあります−を殺してしまい,むしろ犬丸博士を陥れ,殺そうとした友人の父親を救うことになってしまいます。「超人的な力」が必ずしも「正義」ではないのと同様,必ずしも「悪」でもないことを示しています。つまりこの物語は,冒頭から「超人=正義」という前提の欠如から始まっている点で,いわゆる「ヒーローもの」とは大きくその様相を異にしています。
 さらに「強すぎた英雄」において語られる,知らず知らずのうちに超人となってしまったカンガルー男の苦悩と孤独は,まさにユウ=スパイダーマンのそれと重なり合うものであり,だからこそユウは,カンガルー男が自暴自棄でばらまこうとした細菌を,ほんの一瞬ですが,回収するのをためらうのでしょう(この,ユウの「超人=正義に対する確信の無さ」は「狂気の夏」における彼の空想−自分の力で渋滞の自動車をつぎつぎと破壊していくという空想にも現れています)。

 本編では,上に書いたようなユウの「内側」における「正義の軸の不在」だけでなく,「外側」における「正義のあやうさ」も描かれています。「強すぎた英雄」では,カンガルー男を逃がしたスパイダーマンに対して,マスコミは,「偽善者」「エゴイスト」「単なる賞金稼ぎ」と,執拗なネガティヴ・キャンペーンをはります。大衆もまたそれに乗せられ,スパイダーマンをなじります。そして「にせスパイダーマン」になると,犯罪を重ねる「にせもの」を,マスコミも大衆も糾弾します。
 ヒーローものにおける「正義」は,あくまで大衆の支持を受けることによって,成り立ちます。怪物にしろ宇宙人にしろ,人々の生活を,幸福を破壊する「悪」であり,それと戦うからこそヒーローは「正義の見方」として支持されます。しかし本編では,その「大衆の支持」なるものが,じつに移ろいやすく,変容しやすいものであることを描いています。
 そして「狂気の夏」にいたっては,その「悪」さえも,大衆が,社会が産み出したものとして描かれます。たしかに次々と殺人を繰り返す男は「悪」かもしれません。けれどもこのエピソードの最後に明かされる「悪」の正体は,ある意味,当時の時代状況の犠牲者でもあります。ユウは叫びます。
 「ちくしょう! かれを凶行においやったのはだれなんだ!」

 移ろいやすい「正義」と,犠牲者としての「悪」…その狭間で「正義の味方」はどのようなスタンスが可能なのでしょうか?

 ところでこの作品,原作は平井和正と覚えていて,クレジットがないのでおかしいな,と思っていたのですが,カヴァ裏を見ると,どうやら全部が平井和正原作ではなく,一部だけのようですね。でもだからといって,奥付で「著者 池上遼一」とのみ入れるのは,いかがなものかと思いますが…

02/06/07

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