五十嵐大介『そらトびタマシイ』講談社 2002年

 6編を収めた短編集です。

 なんと書いたらいいのでしょう。正直,困っています。すごく惹かれるものがあるのは確実なのですが,それをうまく表現する言葉を持たない。ですから,未読の方にどれほどこの作品集の魅力が伝わるのか,まったく自信がありませんが,とりあえず書いてみましょう。

 まずなんといっても「画」でしょう。けっして今流行りのシャープで洗練されたものではありません。ペンにインクをつけて,紙の上に一本一本の描線を丁寧に描き込んでいる様が,目に浮かぶような緻密な絵です。その(失礼を顧みずいえば)「愚直」とさえ呼んでもいいような丹念さが,1ページごとに圧倒的なまでの濃密感を読む者に与えます。
 おそらくその画力は,「異形」や幻想的なシーンを描くときにこそ,本領が発揮されるのでしょう。たとえば「そらトびタマシイ」で,主人公の前に現れる,犬と合体した異形の少女。その姿態はたしかにグロテスクではあります。しかし合体した犬のやせ衰えた姿,杖をつきよろめくような歩き方など,不気味さよりもむしろ哀しみと痛々しさを十二分に伝えています。また「熊殺し神盗み太郎の涙」で,主人公太郎が,少女を連れて逃げる山中の描写。細かくびっしりと描き込まれた森の木々の幹や枝は,そのまま太郎たちの行く手を阻む「森の意志」を表現しているように見えます。同じ作品の「神捨て淵」での悪夢的な光景−ガラス瓶に入れられた「捨てられた神」たちが鎖に繋がれ水の中で漂う光景もまた,長い年月の間に「山」が抱え込んできた「闇」の深さを,如実に表わしていると言えましょう。
 しかしこの作者は,そんな緻密な絵が持つ迫力と同時に,絵の中で「白」が持つ効果も十分に承知しているようです。「すなかけ」の中には,ストレスや疲労がたまると皮膚から「砂」が出てくるという特異体質の少女が出てきます。主人公ひとみが,はじめてそれを見るシーン。水平線を思わせる,スクリーントーンと「白」で区切られたバックに,掌からさらさらと流れ落ちる「砂」。その白っぽい画面は,奇怪なシーンにもかかわらず,不思議な静謐さと美しさがあります。画面下方に掌の影を配することで,画面全体を引き締めているところもいいですね。あるいは「le pain et le chat」で,少女が捨てられた子猫を拾い,おびえた子猫に手をひっかかれるシーン。白を強調した画面に「プクウ」と血がにじみ出てくるところは,少女と子猫との,取るに取れないコミュニケーションの哀しみを上手に表現しています。
 つまり,稠密な画と白抜きの画が持つそれぞれの特質と,それらをどう配置すればもっとも効果的か,ということを了解している作家さんと言えるのではないでしょうか。

 さてストーリィはというと,多くがスーパー・ナチュラルな存在が関係します。たとえば表題作「そらトびタマシイ」は,フクロウの霊に取り憑かれた少女の「憑き物落とし」を描いています。その憑き物を落とすのが,上にも書いたような犬の霊と合体した少女という設定がユニークさになっています。しかし,なによりも注目すべきは,3編において「民話」的なテイストが色濃いことでしょう。冒頭の「産土」は,フルカラー4ページの掌編ですが,山中で出逢った妖怪が「薪,土,水」を借りていくというお話で,一種の「謎掛け」的なオチが楽しめます。また「熊殺し神盗み太郎の夢」「未だ冬」は,民話がもともと持っていたであろう「残酷さ」をにじませています。とくに「未だ冬」は,大自然の中の人間の卑小さを,エロティシズムあふれた幻想的なタッチで描いていて,わたしの好きな1編です。
 一方,「すなかけ」「le pain et le chat」は,むしろ日常性にウェイトを置いています。前者は,家出した女子高生と,その先で出逢った男女との交流を描いた作品。この作者特有の朴訥なタッチが,カップルの素朴さ,つつましさを上手に表現しています。また後者は,わたしがこの作者の作品を掲載誌ではじめて読んだ作品です。猫アレルギーの少女が,みずからを傷つけながらも,子猫を守ろうとする姿が印象的でした。またダークな部分に近づきながらも,それをユーモラスに回避するお話作りがいいですね。

02/10/01

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